新田 貞時(にった さだとき)は、江戸時代後期の高家旗本由良家12代当主で、明治維新以前は由良 貞時(ゆら さだとき)と名乗っていた。

 
新田貞時
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政3年4月10日1820年5月21日
死没 明治6年(1873年3月9日
改名 森三郎(幼名)、森可時(初名)、由良貞時、新田貞時
別名 由良久之助(通称
諡号 源阿曾美新田貞時命
新田従五位源朝臣貞時大人命
官位 従五位下[注釈 1]侍従信濃守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 森氏由良氏
父母 森忠敬酒井忠実娘・東
新田貞靖
兄弟 森忠貫森正綽森忠徳青木可寿
貞時森可彝
新田貞靖
貞善貞觀
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生涯

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文政3年(1820年)、播磨国赤穂藩9代藩主・森忠敬の三男として赤穂藩江戸藩邸にて誕生。同年4月10日、森三郎可時と名乗る。

天保15年(1844年)3月15日、由良貞靖の養子となる。同年8月15日、12代将軍・徳川家慶御目見し、表高家に就任する。嘉永6年(1853年)1月27日、部屋住ながら高家見習を命じられ、御切米500俵下される。同年2月5日、従五位下・侍従、信濃守に叙任する。同年10月2日、高家職に就任し、役料1000俵を賜る。

元治元年(1864年)7月29日、養父・貞靖の隠居により家督を相続する。慶応4年(1868年)春、貞靖と共に新田姓に復し、官軍に随従する。同年7月、家臣だけでなく新田氏旧領上野国の臣下筋諸家も率いて上京する。明治2年(1869年)、新政府の中大夫となり家禄75石となった。明治4年(1871年)、他の旧高家衆、旧交代寄合の一部[注釈 2]と共に士族となる。

明治維新後、新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを強く主張し、同じ高家衆で由良家分家の横瀬氏(横瀬は由良の旧姓)当主・横瀬貞篤と共に新田氏の顕彰に努めた。明治3年(1870年)3月27日、明治政府に対し先祖とする新田義貞に対する神号の付与を願う。岩松家も新政府に新田氏嫡流と主張しており、由良・岩松両家の争いとなった。この一連の動きにより、新田義貞を祀る群馬県新田郡[注釈 3]の旧金山城址鎮座の新田神社および義貞最期の地・福井市藤島神社の建立という結果をもたらしている。

明治6年(1873年)3月9日、死去。享年54。葬儀は神葬祭で執り行われ、「源阿曾美新田貞時命」[注釈 4]、また「新田従五位源朝臣貞時大人命」と諡号された。

跡は嫡男・貞善が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 一般士族が維新以後に位階を返上した後も従五位を保持。
  2. ^ 高禄の領主は立藩・華族となっていた。
  3. ^ 現太田市。
  4. ^ 阿曾美は朝臣の意。

出典

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