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フェラーリン
ローマ東京間の飛行ルート
侍に扮したフェラーリン中尉
フェラリーンらと日伊飛行関係者たち。1920年

アウトゥーロ・フェラーリン(Arturo Ferrarin、1895年2月12日 - 1941年7月18日)は、イタリア王国パイロット。1920年にローマから東京まで飛び、世界で初めて欧亜連絡飛行を成功させた。

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生涯編集

1895年、ヴェネト州ヴィチェンツァ県ティエーネ生まれ。トリノで学び、ルイ・ブレリオと知り合った。1916年夏にパイロットとしての訓練を受け、第一次世界大戦で戦闘機のパイロットとして活躍した。

戦後は、パリ近郊のヴィラクブレー(Villacoublay)で曲芸飛行家として活動したり、アムステルダムの国際航空ショーに参加したりした。1920年2月14日から5月31日にかけて、グイド・マシエロit:Guido Masiero)中尉とともにアンサルドS.V.A.9機でローマ・東京間1万8000kmを飛行し(飛行時間109時間)、名声を得た(it:Raid Roma-Tokyo)。

その後は、アンサルド社のテストパイロットとして働く傍ら、1922年にはニース、1923年にはスペイン・ポーランドで曲芸飛行家として活動した。1925年にはヨーロッパ各地を巡回し、ベルギー国王の一家を搭乗させたこともある。1926・27年にはシュナイダー・トロフィー・レースに参加した。

1928年6月、カルロ・デル・プレーテとともに、サヴォイア・マルケッティ飛行艇S.64に搭乗し、周回無着陸飛行で(7,666km、滞空時間53時間37分)の記録を達成。ついで、同機でローマ郊外のモンテチェーリオからブラジルナタールまで7,186kmの無着陸長距離飛行記録を樹立した。これにより、イタリアの Medaglia d'oro al valor aeronautico のほか、国内外で多くの賞を獲得した。1929年、"Voli per il mondo"(世界への飛行)を出版。

その後は、イタリアの航空会社の技術顧問を務めた。第二次世界大戦が勃発するとパイロットへの復帰を希望するが、1941年7月18日、ローマ郊外のグイドーニアの飛行場において、テスト飛行中に事故死した。

ローマ・東京間飛行編集

1918年、イタリア第87戦闘機航空部隊はイタリア初の国産戦闘機アンサルドSVA(ズヴァ)によるパドヴァウィーン間1000kmの長距離飛行を成功させた[1]。この時同乗したガブリエーレ・ダヌンツィオは次の計画として「ローマ─東京長距離飛行」を発表した[1]。空軍参謀本部はアンサルドSVA機を主力とする計11機(うち4機は予備機)の航空隊を編成し、政府も2万リラを出資して、総距離1万8000kmのルートを準備した[1]

フェラーリンは1920年2月14日に航空機関士のカッパンニーニ軍曹とともに出発[1]グイド・マシエロ中尉もマレッタ伍長と同日別機で出発した[1]。2機は5月25日に北京より日本統治下の朝鮮京城に到着し、宇都宮太郎朝鮮軍司令官らの歓迎を受け、大邱を経て、5月30日に大阪の城東練兵場に到着した[2]。大阪ではイタリア空軍の準備委員長らと在神戸イタリア領事、日本陸軍飛行第2大隊長杉山元中佐らのほか、大阪府長・市長らが出迎えた[2]

翌日、フェラーリンは機翼に紅白のリボンをつけ、座席にはセルロイドのキューピーを吊るし、日本人形を抱えたカッパンニーニとともに搭乗し、ビリケンを飾ったマシエロ機とともに東京に向けて飛び立った[2]。フェラーリンは悪天候で方向を失い、岐阜の各務原飛行場に一時着陸したため、マシエロ機に1時間遅れで代々木練兵場(現・代々木公園)に到着した[1]。ローマから約30か所を経由し、109日をかけ、平均時速160km相当で約112時間の飛行だった[1][3]。マシエロは本機破損のため予備のSVAに乗り換える際に広東上海間を船で移動したため、彼の記録は公認されなかった[1]。ローマを出発したその他の飛行機はイラクバスラ到着以前にすべて墜落していた[3][2]。なお、ちょうど同じ頃(5月前半)、各務原で操縦術修業を命じられていた日本陸軍の下士官2名が相次いで訓練中に墜落して命を落としている[2]

代々木練兵場では、日伊の航空関係者のほか、田中義一陸軍大臣、内田康哉外務大臣、山川健次郎東京帝国大学総長、田尻稲次郎東京市長ら高官が出迎え、熱狂する観客の中をフェラーリンら4人は花自動車で一周し、祝賀式ののち、築地精養軒に宿泊した[2]。翌日から、イタリア大使館、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王邸、首相官邸、陸海軍・外務各省などを訪問し、宮中から招待を受けて皇居で貞明皇后にも謁見した[2]。4人には瑞宝章が叙勲され、田中陸相の祝宴では日本刀が贈られた[2]九段偕行社では、日本への親書をローマから携えつつペルシャ湾岸のブーシェフルで遭難した2名の搭乗員のために、曹洞宗による葬儀が行われた[2]

日本側は2か月にわたって様々なかたちで一行をもてなしていたが、フェラーリンとマシエロの仲が次第に険悪となり、突然7月後半に相次いで帰国してしまった[2]。フェラーリンの搭乗機はイタリア大使館から日本に寄贈され、世界初の欧亜連絡機として京都の岡崎公園で開催された空中文明博覧会に展示され、朝日新聞社は両機の到着や歓迎の様子をおさめた映像をイタリア皇室に献上した[2]

1925年には朝日新聞社の「東風」「初風」の2機が欧州訪問飛行を敢行、1931年には、内田百閒の提案で法政大学の学生が複葉機「青年日本号」でローマに向かった[1]。また、イタリアの飛行愛好家たちにより、「2020年東京・ローマ帰還飛行」が計画されている[3][1]

備考編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j 100年後の浪漫飛行──アルトゥーロ・フェラリンを偲んでGQ Japan, 2017.06.09
  2. ^ a b c d e f g h i j k 日本航空史 明治・大正編p460-466「ローマからのイタリー軍用機」
  3. ^ a b c 98年前 ローマから東京に飛んできた男NHK, おはよう日本、2018年5月31日

外部リンク編集