エドワード・イングランド

エドワード・イングランド(Edward England、1685年 - 1720,1721年)は、アイルランド出身の海賊。主にロイヤル・ジェームズ号とファンシー号を指揮した。彼の海賊旗サミュエル・ベラミーのものとほとんど同じであり、髑髏の下に交差する骨であった。

エドワード・イングランド
Edward England
生誕 1685年
アイルランド
死没 1720年-1721年(36歳)
マダガスカル
海賊活動
種別海賊
活動期間1716年1720年
階級船長
活動地域南アフリカ
指揮ロイヤル・ジェームズ号
ファンシー号

イングランドは1685年頃にアイルランドにてエドワード・シーガーとして生まれた。彼はヘンリー・ジェニングスの部下としてフロリダ湾で難破したスペインガレオン船から財宝を盗み出す遠征に参加した。その後チャールズ・ヴェインの部下として航海し、やがて船を与えられて独立する。1720年、イングランドと一味はアフリカコモロ諸島でジェームズ・マクレイ船長のカサンドラ号と戦闘となる。多数の死傷者が出たにもかかわらず、イングランドがマクレイを逃がしてしまったために部下たちは投票によってイングランドを船長の座から追いやり、モーリシャス島に置き去りにした。彼はボートでマダガスカルに渡ったが、1720年か1721年におそらく熱帯病で死んだ。

経歴 編集

初期の海賊行為 編集

1685年頃、アイルランドにてエドワード・シーガーとして生まれ、おそらくはカトリック教徒として育てられた。スペイン継承戦争の最中ジャマイカに渡ったのち、私掠船の航海士を務めた[1]。しかし一行は海賊クリストファー・ウィンターに捕われ、これが切っ掛けとなり海賊稼業に乗り出すこととなる[1]。おそらくこの頃シーガーの姓を捨て、イングランドを名乗るようになったとされる。

1716年、ヘンリー・ジェニングスの部下となったイングランドは、フロリダ湾で難破したスペインのガレオン船から財宝を掠奪する攻撃に参加した。1718年、イングランドはチャールズ・ヴェインの操舵手となった。ヴェインのスループ船ラーク号はイギリス海軍のフェニックス号に捕えられるが、後に解放される[2]

船長として 編集

 
エドワード・イングランドの海賊旗

1718年、イングランドはヴェインから船を与えられて独立した。バハマ植民地総督のウッズ・ロジャーズナッソーへやって来たさい、多くの海賊が王の赦免を求めて降伏したが、ヴェインと配下の海賊たちはこれを拒否した[3]。イングランドも例外ではなく、一味はアフリカへ向かった。

一味はシエラレオネブリストル籍のスノー船カドガン号を拿捕する。この船の船長はスキナーという男で、イングランドの部下のうち数人はかつて彼の船の乗組員だったことがあった。スキナーは彼らといさかいを起こし、給与を払わずに追い出してしまった過去があり、恨みを持っていた海賊たちはスキナーに虐待を加えた。キャプテン・チャールズ・ジョンソンの『海賊史』によると、海賊たちはこう言ったとされる。

「これはこれは、スキナー船長じゃねえですかい。俺はあんたに会いたかったぜ。あんたには随分と借りがあるから、たっぷり礼をさせてもらいますぜ」[4]

そう言うやいなや、海賊たちはスキナーをウィンチに縛り付けてから酒瓶で殴りつけた。さらに彼らはスキナーの命乞いを無視して甲板中を引き回し、散々鞭打った。最後には「いい船長だった」と言い放ってフリントロックで頭を撃ち抜いてしまったという[5]

イングランドはカドガン号の乗組員たちを自分の部下とするつもりであったが、この船に一等航海士として乗船していたハウエル・デイヴィスはこれを拒否した。デイヴィスは海賊の仲間になるぐらいなら死んだ方がマシだと言い放ち、この勇気に感心したイングランドはカドガン号の指揮権をデイヴィスに与えて解放した[6]。この一件がデイヴィスの海賊としてのキャリアのスタートとなり、後にデイヴィスの部下となるバーソロミュー・ロバーツにも繋がることとなる。

その後、イングランドはパール号を拿捕すると自らの旗艦とし、ロイヤル・ジェームズ号と改名した。1719年の春、ガンビア川ケープ・コーストの沿岸を荒らしまわり、10隻もの船を掠奪、拿捕した。これらのうち2隻をイングランドのもとから離れるロバート・レーン、およびロバート・サンプルに与えた[7]。更にヴィクトリー号を僚船とし、ジョン・テイラーという荒くれの男に指揮を任せた。

アフリカ沿岸を掠奪しながら航海したイングランドの一味はウィダーに向かうが、当地は既にラ・ブーシュ船長というフランス人海賊に掠奪された後であり、これは徒労に終わった[8]。一味は近くの港に入港してそこで数週間過ごすが、現地の女たちに乱暴を働き、住民と争いを起こして数人を殺害するにまで至った。さらに集落を焼き払ってしまったという[9]

インド洋 編集

 
ファンシー号とカサンドラ号の戦いを背景にしたエドワード・イングランド

1720年、イングランドの一味はコモロ諸島のアンジュアン島にて、2隻のイギリス船と1隻のオーステンデ船と遭遇する。このうちのジェームズ・マクレイ船長が指揮するカサンドラ号と戦闘になり、カサンドラ号とイングランドのファンシー号が座礁した。戦闘の結果、イングランドの船員は90人もの死者を出し、マクレイも多数の部下を失い自身も負傷した。島に逃げ延びたマクレイは10日後イングランドに投降し、ロイヤル・ジェームズ号の捕虜となった。捕虜となっている間、マクレイは何とか海賊たちの機嫌を取って命だけは救われたが、イングランドは彼らの気が変わらないうちに立ち去るようマクレイに忠告した。イングランドは慈悲深い男であり、カサンドラ号を奪った代わりに損傷したファンシー号をマクレイに与えて逃がした[10]。しかし、イングランドのこの選択は乗組員たちの不興を買うこととなった。さらに逃げ延びたマクレイが海賊討伐のために船隊を準備しているという噂を聞きつけると、彼らの怒りは最高潮となった。ヴィクトリー号の船長であるテイラーはすぐさま投票を行ってイングランドを船長の座から引きずりおろし、イングランドと彼に忠実だった3人の部下をモーリシャス島に置き去りにしてしまった[11]

置き去りにされたイングランドたちは板切れから小型のボートを作ってマダガスカルに渡った[11]。イングランドはその後、マダガスカルにておそらくは熱帯病で死んだ。1720年か1721年のことだとされる。

人物 編集

イングランドは海賊の中でも特に人道的な人物として知られている。チャールズ・ジョンソンは著作『海賊史』の中で、イングランドについてこう述べている。

「イングランドは善き分別を持った人びとの1人であった。性格もよく、勇気にも富んでいた。強欲ではさらになく、捕虜を虐待することを常に嫌悪した。仲間をこのような温和な性格にもってゆくことができたら、彼は控え目な獲物で満足したであろうし、あまり悪辣な行為に及ぶこともなかったと思われる。しかし彼は他人の言うなりになり、またあの忌まわしい集団に深入りしすぎたため、彼らのあらゆる悪行の片棒をかつがざるを得なかったのである」[12]

荒くれ者の海賊たちの中では、誰よりも野蛮で残酷である人物こそが尊敬の的となった。イングランドはこれと全く正反対の性質を持っていたため、部下たちはしばしば彼を軽視した。イングランドは一味の中で自らの権力が落ち目になっていることを自覚しており、何か意見するたびに部下たちが反抗する有様だった[13]。最終的にはイングランドの善意が彼を船長の立場から追いやることとなってしまった。

脚注 編集

  1. ^ a b ウッダード P324
  2. ^ ウッダード P321-322
  3. ^ ウッダード P315
  4. ^ ジョンソン P147-148
  5. ^ ジョンソン P148
  6. ^ ジョンソン P237
  7. ^ ジョンソン P150
  8. ^ ジョンソン P151
  9. ^ ジョンソン P150-151
  10. ^ ジョンソン P153-160
  11. ^ a b ジョンソン P160
  12. ^ ジョンソン P146-147
  13. ^ ジョンソン P159

参考資料 編集

  • コリン・ウッダード(著)、大野晶子(訳)、『海賊共和国史 1696-1721年』2021年7月、パンローリング株式会社
  • チャールズ・ジョンソン(著)、朝比奈一郎(訳)、『海賊列伝(上)』2012年2月、中公文庫