エドワード・ホッパー

アメリカの画家

エドワード・ホッパーEdward Hopper, 1882年7月22日 -1967年5月15日)は、20世紀アメリカ画家。油彩画で広く知られているが、水彩画家と版画家としてエッチングにも熟練していた。都会と田舎の風景の両方で細かく計算された表現は、現代のアメリカ生活のビジョンを反映している。

エドワード・ホッパー
Edward Hopper
Edward Hopper, New York artist LCCN2016871478.jpg
生誕 (1882-07-22) 1882年7月22日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ナイアック
死没1967年5月15日(1967-05-15)(84歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州マンハッタン
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育ニューヨーク美術学校
著名な実績具象絵画
代表作本文参照
配偶者ジョゼフィーン・ホッパー

経歴と画風編集

ニューヨーク州ナイアック(Nyack)に生まれる。商業美術の学校に進んだのち、ニューヨーク美術学校(New York School of Art)で絵画を学ぶ。アシュカン派(ごみ箱派、アッシュカン・スクール)の指導的画家であるロバート・ヘンライは同校の教師であり、アメリカン・ライフの写実的描写はその影響とされる。

1915年にエッチングとイラストレーションに転向するが、1930年には水彩画と油彩画を再開する。

1925年に制作された『線路脇の家』はホッパーの最初期の連作の一つで、その後の彼のスタイルを決定づけた作品である。都会の街路、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家などアメリカ人には見慣れた都市や郊外の風景を、単純化された構図と色彩、大胆な明度対比、強調された輪郭線で描く彼の孤独な雰囲気漂う作品は今日のアメリカでも高い人気をもっている[1]

若年期編集

 
エドワード・ホッパーの生家

1882年、ニューヨーク市北部のハドソン川沿いのヨット建造センターであるニューヨーク州ナイアック(Nyack)にて、裕福な家庭の二人の子供のうちの1人として生まれた[2][3]。両親はオランダ系であり、先祖ほど成功していなかったが、乾物商の父ギャレット・ヘンリー・ホッパーは2人の子供の教育にかなりの資金を投じた。エドワードと姉妹のマリオンは私立の学校に通い、厳格なバプテストの家で育った[4]。父親は穏やかな性格で、エドワードの母親、祖母、姉妹、メイドなど女性優位な家庭だったという[5]

出生地と少年時代の家は2000年に国家歴史登録財に登録された。現在はエドワード・ホッパー・ハウス・アートセンターとして運営され、展示会、ワークショップ、講演会、公演、特別イベントを開催する非営利コミュニティ文化センターとして機能している[6]

 
Vase (1893)、エドワード・ホッパーの最初期のサインと日付入りの作品。

ホッパーは子供時代から優秀で、5歳のときには既に絵の才能を示した。父親の知的傾向とフランスやロシア文化への愛情をすぐに吸収し、また母親から芸術的な才能も引き継いでいた[7]。両親は芸術を奨励し、教育雑誌や図鑑などの資料を与えた。10歳のときに初めて自分の絵に署名し、日付を記入し始めた。これらの最初期の作品には、花瓶、ボウル、カップ、箱など、幾何学的な形の木炭のスケッチが見られる[8]。ホッパーがキャリアを通じて描いた光と影の細かい描写は、これらの初期の作品にすでに見られている。十代まではペンとインク、木炭、水彩、油彩等を用いて、自然をモチーフとした絵を描くだけでなく、政治的なカートゥーンも描いていた[9]。1895年、ホッパーは彼の最初の署名入りの油絵、「ロッキー入り江のローボート」を製作した。これは初期には船舶の主題へ興味があったことを示している[10]

初期の自画像では、ホッパーは自身を痩せた、無骨で地味な青年に描く傾向があった。背が高くて静かな十代の少年だったが、ホッパーのいたずらっぽいユーモアのセンスは、彼の芸術に、時には移民の描写や、漫画の場面で男性を支配している女性の描写に現れている。後年、彼は主に絵画の人物として女性を描いた[10]。高校時代は海軍建築家になることを夢見ていたが、卒業後は芸術のキャリアを続けることにした。ホッパーの両親は、商業芸術を学んで手に職をつけるように言った[11]。この頃のホッパーは、ラルフ・ワルド・エマーソンの著作に影響を受け、後に「彼をとても尊敬している...何度も何度も本を読んだ」と述べている[12]

1899年に通信教育コースで美術の勉強を始め、その後パーソンズ美術大学の前身であるニューヨーク美術学校に転校した。そこで6年間学び、油絵の指導をしたウィリアム・メリット・チェイスら教師たちから学んだ[11]。ホッパーは早い段階で、チェイスとフランスの印象派の巨匠エドゥアール・マネエドガー・ドガを模倣して自身のスタイルを形成していった[13]。モデルをスケッチすることは、保守的に育てられたホッパーに衝撃と挑戦を与えた[14]

ホッパーのもう一人の教師、ロバート・ヘンライは写生を教えた。ヘンライは、生徒たちに自分のアートで「世界をかき混ぜる」よう奨励し、「主題とは数えることではなく、それについて感じること」と「芸術を忘れて、興味のあるものの絵を描くこと」と生徒に助言した[11]。このように、ヘンライはホッパーだけでなく、その後画家となるジョージ・ベローズロックウェル・ケントなどに影響を与えた。ヘンライは作品に現代の精神を吹き込むことを奨励した。ジョン・スローンを含むヘンライの周囲のアーティストの一部は、アッシュカン・アメリカン・アートスクールとしても知られる「ザ・エイト」のメンバーとなった[15]。ホッパーがインテリアを主題とした現存する最初の油絵は、Solitary Figure in a Theater (c.1904)である[16]。学生時代、ホッパーは自分の自画像を含む数十のヌード、静物、風景、肖像画を描いていた[14]

1905年、ホッパーは広告代理店でアルバイトを始め、業界誌のカバーデザインを担当した[17]。1920年代半ばまで経済的必要性によってそれに拘束され、イラストを嫌うようになった[18]。ヨーロッパに3回旅行し、それぞれパリを中心として、表向きはアートシーンを勉強した。しかし実際には一人で勉強し、芸術の新しい流れにほとんど影響を受けなかった。後にホッパーは「ピカソについて聞いたことをまったく覚えていなかった」と語った[15]レンブラントの作品、特に「夜警」には非常に感銘を受け、「私が見た彼の作品の中で最も素晴らしいものだ」と言った[14]

苦難の日々編集

 
Smash the Hun (1918)

最後のヨーロッパ旅行から戻った後、ホッパーはニューヨークで部屋を借り、そこで自分のスタイルを確立するのに苦心した。生計を立てるために仕方なく、古巣のイラスト業に戻った。フリーランサーであったため、仕事を得るために雑誌社や代理店のドアを叩き、仕事を頼んで回らなければならなかった[19]。「何を描くか決めるのが難しい。それを見つけることが出来ないまま何ヶ月も過ごしてしまうことがある。とても遅いんだ」と苦悩を募らせた[19]。仲間のイラストレーターのWalter Tittleは、ホッパーのその時の様子を「苦しんでいる...長い間克服できない無気力に苦しんでいて、イーゼルの前に何日も座って無力な不幸を感じ、呪文を破ることができなかった。」と語っている[20]

1912年、30歳のホッパーはインスピレーションを求めてマサチューセッツ州のグロスターを旅し、アメリカで自身の最初の屋外絵画を制作した[19]。これはのちに連作となる最初の灯台の絵だった[21]

1913年の美術展覧会で、ホッパーは昔描いた自画像を塗りつぶして描いた絵画[Sailing(1911)]を販売し、初めて画家として250ドルを得た[22]。31歳のホッパーはこの実績が今後につながることを望んだが、彼のキャリアはその後も何年もうまく行くことはなく、ニューヨークの小さな会場でのグループ展に参加し続けた[23]。同じ年に父親が亡くなった直後、その後の人生を過ごすこととなるマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジにあるワシントン・スクエアのノース・アパートメントに転居した。

翌年、いくつかの映画ポスターを製作し、映画会社のプロモーションを行う仕事を委託された[24]。ホッパーはイラスト作品は好きではなかったが、映画や演劇の熱狂的ファンだった。どちらも絵の主題として扱っており、それぞれが彼の作風に影響を与えている[25]

1915年、ホッパーは油絵に行き詰まり、エッチングに目をつけた。1923年までに約70作品のほとんどをエッチングで制作し、パリとニューヨークの両方の都市の風景の多くを制作した[26][27]。また、時おり商業作品の製作を続けながら、戦争運動のためのポスターをいくつか作成した[28]。余裕があるときにはニューイングランド、特にオガンキットの芸術村とモンヒガン島を訪れ、屋外の水彩画を制作した。

憤悶とした数年間を経て、ホッパーはいくらか認められ始めた。1918年に、戦争ポスター「Smash the Hun」で米国海運委員会賞を受賞した。更に1917年に独立アーティスト協会、1920年と1922年にはホイットニー美術館の前身であるホイットニースタジオクラブで個展が開かれた。 1923年に、エッチングに対してエッチャーズシカゴ協会からローガン賞とW. A.ブライアン賞の2つの賞を受賞した[29]

 
ニューヨークレストラン(New York Restaurant, 1922)

1920年代初頭、大衆は、[エル・トレインの夜(沈黙の夫婦)]、[夕方の風(孤独な女性)]、[キャットボート(単純な航海シーン)]のように、彼の後期のテーマのいくつかを表現した[30]。この時期の注目すべき2つの油絵は、[ニューヨークインテリア(1921)]と[ニューヨークレストラン(1922)]である。ホッパーはまた、その後多く描くこととなる「窓」の絵画2つ、「Girl at Sewing」と「月光のインテリア」を描いた。どちらもアパートの窓の近くの人物(着衣または裸体)を見ているか、外から見ている視点から見たものである[29]

結婚とブレイク編集

1923年に、ホッパーの緩やかな上昇はついに大きな実を結んだ。マサチューセッツ州グロスターでの夏の絵画旅行の間に、ロバート・ヘンライの元教え子だったジョゼフィーン・ニビソンに再会した。ホッパーは背が高く、内気で、内省的かつ保守的であったのに対し、ジョゼフィーンは背が低く、オープンで、社交的で寛大な性格だった[28]。全く正反対の二人は一年後に結婚した。彼女はホッパーのキャリアとインタビューを管理し、主要なモデルを務め、生涯の伴侶となった[31]

ジョゼフィーンの助けを借りて、ホッパーのグロスターの水彩画6点が1923年にブルックリン美術館の展示会に出品された。そのうちの1つである[The Mansard Roof]は永久コレクションとして100ドルでブルックリン美術館に購入された[32]。批評家たちは「何て活力、迫力、そして率直さだ!最も家庭的な主題で何ができるかを刮目せよ」と一様に彼の作品を絶賛した[32]。ホッパーは翌年の個展で出品したすべての水彩画を売ることができ、遂に商業イラストを辞めることにした。

41歳で、ホッパーは更なる名声を得た。しかし自分のキャリアについて苦々しさを心に抱き続け、その後は人前に出ることや受賞を断った[32]。安定した売り上げによって経済的な安定を得た後はシンプルで安定した生活を送り、40年以上に渡って独自のスタイルでアートを生み出し続けた。

 
線路脇の家, 1925

[Two on the Aisle(1927年)]は自己最高額の1,500ドルで購入された。ホッパーは自動車を購入することができ、ニューイングランドへの絵画旅行に使用した[33]。1929年に彼は[Chop Suey] と [Railroad Sunset]を製作した。翌年、パトロンであるスティーブン・クラークは、[House by the Rail Road(1925)]を同館初の油絵コレクションとしてニューヨーク近代美術館に寄贈した[34]

1930年頃には最後の自画像を油絵で描いた。ジョゼフィーンは彼の多くの絵にポーズをとっていたが、正式な油絵の肖像画として描かれたのは[Jo Painting(1936)]だけである[35]

大恐慌の間、ホッパーは他の多くの芸術家よりもましな境遇だった。1931年、ホイットニー美術館メトロポリタン美術館などの主要な美術館が彼の作品に数千ドルを支払い、ホッパーの名声は急上昇した。その年、ホッパーは水彩画13点を含む30点の絵画を販売した。翌年、最初のホイットニー・ビエンナーレに参加し、その後生涯を通じて毎年展示し続けた[33]。1933年に、ニューヨーク近代美術館は初めてホッパーの大規模な回顧展を開催した[36]

 
ナイト・ホークス, 1942

1930年、ホッパー夫妻はケープコッドのサウストルロにコテージを借りた。毎年夏をそこで過ごし、1934年に夏用の家を建てた[37]。ホッパーが絵の題材を探す必要があるときは、夫妻はそこから他の地域へ車で旅行することもあった。1937年と1938年の夏、夫妻はホッパーがホワイトリバーの連作の水彩画を描いたバーモント州サウスロイヤルトンのワゴンホイール・ファームに長期滞在した。これらの風景はホッパーの成熟した作品の中では典型的ではなく、ほとんどが「純粋な」風景であり、建築物や人物が見当たらない。[Branch of the White River (1938)]は現在ボストン美術館にあり、ホッパーのバーモントの風景の中で最もよく知られる[38]

 
ガス・ステーション(1942)

1930年代から1940年代初頭にかけては非常に精力的に活動し、[New York Movie (1939)]、[Girlie Show (1941)]、[ナイト・ホークス(1942)]、[ホテル・ロビー(1943)]、[Morning in City(1944)]など、数多くの重要な作品を生み出している。しかし1940年代後半は比較的無活動の期間を過ごし、「もっと描きたい。読書や映画はもう飽き飽きだ。」と言った[39]。その後の20年間、ホッパーの健康状態は悪化し、前立腺手術やその他いくつかの健康的問題を抱えた[39]。しかし、1950年代から1960年代初頭に、[First Row Orchestra(1951)][Morning Sun(1952)] 、[Hotel by a Railroad(1952)]、 [Intermission(1963)]などを含む主要な作品を製作した[40]

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1967年5月15日、ホッパーはニューヨーク市のワシントンスクエア近くの自身の住居で死去し、2日後に出身地であるニューヨークのナイアックにあるオークヒル墓地に埋葬された[41]。妻のジョゼフィーンは10か月後に亡くなり、ホッパーと一緒に埋葬された。

ジョゼフィーンは、3000点を超える作品の共同コレクションをホイットニー美術館に遺贈した[42]。ホッパーの他の重要な絵画は、ニューヨーク近代美術館、デモインアートセンター、シカゴ美術館などに収蔵されている。

作品編集

美術展編集

1980年に、ホッパーの美術展「The Art and the Artist」がホイットニー美術館で開かれ、ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、サンフランシスコ、シカゴを巡回した。この美術展では、ホッパーの油絵とその習作が初めてヨーロッパに発表された。これがホッパーのヨーロッパでの人気と彼の世界的な評判の始まりだった。

2004年、ホッパーの多数の絵画がヨーロッパを巡り、ドイツのケルンにあるルートヴィヒ美術館とロンドンのテート・モダンで展示された。テート展はギャラリーの歴史の中で2番目に人気があり、3か月で42万人が訪れた。

2007年には、ホッパーが最も活動していた期間(1925年頃から20世紀半ばまで)に焦点を当てた美術展がボストン美術館で開催された。展示は、50の油絵、30の水彩画、および人気のナイトホークス、Chop Suey、灯台や建物を含む12の版画で構成された。

2010年、スイスのローザンヌにあるエルミタージュ財団(Fondation de l'Hermitage)の美術館は、ホッパーの全キャリアを網羅した美術展を開催した。作品の多くは、ニューヨークのホイットニー美術館からレンタルされた。これには、絵画、水彩画、エッチング、漫画、ポスター、および習作の一部が含まれており、ミラノとローマでも展示された。

2011年、ホイットニー美術館は、「エドワード・ホッパーとその時代」という展覧会を開催した。

2012年には、ホッパーの作品の豊かさを示す彼の傑作の複雑さを明らかにしようとする展覧会がパリで開かれた。展示は年代順に2つの主要な部分に分けられ、最初のセクションではホッパーの形成期(1900〜1924年)をカバーし、彼の作品と、パリでホッパーが影響を受けた可能性がある同時代人や芸術の作品を比較展示した。 2番目のセクションでは、独特なスタイルを象徴する最初の絵画、たとえば[House by the Railroad(1924)]から最後の作品まで、ホッパーの成熟した芸術に注目した。

アート市場編集

ホッパーは多作ではなく、キャンバスを366枚描いたのみだったため、作品が市場に出回ることはほとんどない。1950年代、70代の頃には、年間約5点の絵画を制作していた。1924年にホッパーの初めての個展を開催した彼の長年のディーラー、フランクレンは、1957年に[Hotel Window(1956)]を$ 7,000(2019年の$ 63,722に相当)で売却した。1999年、フォーブス・コレクションはこの作品を俳優のスティーブ・マーティンに約1,000万ドルで売却した。2006年、マーティンはサザビーズで、この作品をホッパー作品最高額の2,689万ドルで売却した。[117]

2013年、ペンシルベニア美術アカデミーは現代美術獲得の基金を設立するために、2,200万ドルから2,800万ドルを獲得することを望んでホッパーの[East Wind Over Weehawken (1934)]を売りに出した。これはニュージャージー州ウィホーケンの切妻の家を描いた暗い、土色の風景画であり、ホッパーの最高作品の1つと見なされている。もともとホッパーの死の15年前の1952年にディーラーから低価格で直接販売されたこの絵は、ニューヨークのクリスティーズ[119]で記録的な3600万ドルで匿名の電話応札者に売却された。

2018年、アートコレクターのバーニー・A・エブスワースが亡くなり、彼のコレクションの多くの作品がオークションにかけられ、[Chop Suey (1929)]は9,200万ドルで売られ、これまでにオークションで購入したホッパーの作品の中で最も高額となった。[121 ] [122]

代表作編集

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ 中野京子 『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』文藝春秋、2016年、255頁。ISBN 978-4-16-390308-8 
  2. ^ Levin, Gail (1999). "Hopper, Edward". American National Biography. New York: Oxford University Press.
  3. ^ "Edward Hopper (1882–1967)". metmuseum.org.
  4. ^ Levin 1995, p. 12
  5. ^ Levin 1995, p. 23
  6. ^ "National Register Information System". National Register of Historic Places. National Park Service. March 13, 2009.
  7. ^ Levin 1995, p. 12, 16
  8. ^ Levin 1995, p. 16-18
  9. ^ Levin 1995, p. 20
  10. ^ a b Levin, Gail, The Complete Oil Paintings of Edward Hopper, W.W. Norton & Co., New York, 2001, p. 1, ISBN 0-393-04996-5
  11. ^ a b c Maker 1990, p. 8
  12. ^ Wagstaff, Sheena Ed., Edward Hopper, Tate Publishing, London, 2004, p. 16, ISBN 1-85437-533-4
  13. ^ Levin 1995, p. 40
  14. ^ a b c Levin 2001, p. 38
  15. ^ a b Maker 1990, p. 9
  16. ^ Levin 2001, p. 19
  17. ^ Levin 1995, p. 48
  18. ^ Maker 1990, p. 11
  19. ^ a b c Levin 1995, p. 88
  20. ^ Wagstaff 2004, p. 53
  21. ^ Levin 2001, p. 88
  22. ^ Levin 2001, p. 107
  23. ^ Gail Levin. Hopper, Edward, American National Biography Online, February 2000. Retrieved December 20, 2015.
  24. ^ Wagstaff 2004, p. 227
  25. ^ Levin 2001, pp. 74–77
  26. ^ Maker 1990, p. 12
  27. ^ Kranzfelder, Ivo, and Edward Hopper, Edward Hopper, 1882–1967: Vision of Reality, New York: Barnes & Noble Books, 2003, p. 13, ISBN 0760748772
  28. ^ a b Levin 1995, p. 120
  29. ^ a b Levin 2001, pp. 152, 155
  30. ^ Maker 1990, p. 13-15
  31. ^ Maker 1990, p. 16
  32. ^ a b c Levin 1995, p. 171
  33. ^ a b Wagstaff 2004, p. 230
  34. ^ Levin 2001, p. 161
  35. ^ Levin 2001, p. 246
  36. ^ Maker 1990, p. 17
  37. ^ Allman, William G. (10 February 2014). "New additions to the Oval Office". The White House. Retrieved 11 February 2016.
  38. ^ Clause 2012
  39. ^ a b Wagstaff 2004, p. 232
  40. ^ Wagstaff 2004, p. 233
  41. ^ (de) Grave of Edward Hopper at knerger.de
  42. ^ Wagstaff 2004, p. 235

評伝編集

  • ローランス・デベック=ミシェル『ホッパー 岩波世界の巨匠』清水敏男訳、岩波書店、1994年
  • ヴィーラント・シュミート解説『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』
光山清子訳、岩波書店「岩波アート・ライブラリー」、2009年。画集

外部リンク編集