エフゲニー・スヴェトラーノフ
エフゲニー・フョードロヴィチ・スヴェトラーノフ(ロシア語: Евгений Фёдорович Светланов、ロシア語ラテン翻字: Yevgeny Fyodorovich Svetlanov、1928年9月6日 - 2002年5月3日)は、ロシアの指揮者、作曲家、ピアニスト。
エフゲニー・スヴェトラーノフ Евгений Светланов | |
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基本情報 | |
出生名 | Евгений Фёдорович Светланов |
生誕 | 1928年9月6日 |
出身地 |
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死没 |
2002年5月3日(73歳没)![]() |
学歴 | モスクワ音楽院 |
ジャンル | クラシック |
職業 | 指揮者、作曲家、ピアニスト |
公式サイト | 公式サイト |
人物・来歴編集
1928年、モスクワ生まれ。
1944~1946年、音楽教育学校(現:グネーシン記念音楽学校)でピアノを学び、その後グネーシン音楽大学でニコライ・メトネルの弟子のマリア・グルヴィチャの下で学ぶ。その後で作曲をミハイル・グネーシンについて学ぶ。1951年にピアノ専攻で同音楽大学を卒業後、モスクワ音楽院に入学する。オペラ管弦楽指揮をアレクサンドル・ガウク、作曲をユーリ・シャポーリンについて学ぶ[1]。1954年、音楽院第4学年の時からモスクワ放送交響楽団で指揮を開始する。
1955年からボリショイ劇場の指揮者となり、1963~1965年には主任指揮者。1965年からソ連国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)首席指揮者に就任。1979年からロンドン交響楽団客演指揮者も務めた。
2002年、逝去。73歳没。
指揮者・作曲家として編集
スヴェトラーノフは、グリンカ以降の全てのロシア・ソビエト連邦の交響楽を録音するという念願をあと一歩で果たせなかったが、かなりの数のライブ録音やスタジオ録音に成功した。アレンスキーの交響曲全集、カリーンニコフの管弦楽曲全集、ミャスコフスキーの交響曲全集などは貴重な遺産である。モソロフの《鉄工場》、ショスタコーヴィチの《森の歌》等のライブ録音は、この指揮者の特徴を端的に示した演奏として名高い。スヴェトラーノフはロシア人の指揮者として、(共産党幹部から禁止された作曲家を除き)ロシア人による交響作品全曲をレパートリー化した最初の存在である。メロディアの「ロシアン・シンフォニック・アンソロジー」ほかロシア人の作曲家だけでアルバム数が100を超えた存在は、近年のロシアの財政難を考慮すると今後も出現することはないだろうとされる。
晩年は、運営を巡ってのロシア国立交響楽団との関係が悪化するにつれ、フリーの指揮者としてロシア外のオーケストラへの客演が増えた。オランダのハーグ・レジデンティ管弦楽団やスウェーデン放送交響楽団、NHK交響楽団などに客演している。その様子は、ラフマニノフの交響曲第2番、チャイコフスキーの三大バレエ曲集などのCDに記録されている。
作曲家としては、年齢的にはプロコフィエフやショスタコーヴィチより若いが、後期ロマン派音楽の伝統から脱しておらず、ピアニストとして得意としたラフマニノフやメトネルの影響を濃厚に受けている。代表的な作品として、交響曲第1番、ピアノ協奏曲、交響詩『赤いカリーナ』(従来は『赤いゲルダーローズ』と訳されていた)、ヴァイオリンと管弦楽のための『詩曲』などが挙げられる。スヴェトラーノフの作品は自身で指揮した録音が複数あるほか、師のガウクによる録音も現存する。
エピソード等編集
1970年代頃から、ロシア国立交響楽団を指揮する場合は、ライブであろうがスタジオであろうが、必ず譜面台に赤い扇風機をつけて指揮していた。しかも、旧ソ連製であるゆえかライブ録音のCDなど弱音時に扇風機の音が聴こえるため、CDの解説書に但し書きまでついていた。これについて、より静粛性が高くて風量も多いタイプを薦められたこともあったが、馴染みのある赤い扇風機に拘っていたスヴェトラーノフは全て断り、海外公演の際は変圧器まで用意して使っていた。
小惑星(4135) Svetlanovはスヴェトラーノフの名前にちなんで命名された[2]。
脚注編集
注釈・出典編集
- ^ “名指揮者エフゲニー・スヴェトラーノフ死す”. ロシア・ビヨンド (2013年5月3日). 2019年12月4日閲覧。
- ^ “(4135) Svetlanov = 1929 UK = 1966 PG = 1985 VM = 1987 DO4”. MPC. 2021年10月3日閲覧。
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