エレオノール (ヴェルマンドワ女伯)

エレオノール・ド・ヴェルマンドワ(フランス語:Eléonore de Vermandois,1148/49年または1152年10月14日 - 1213年6月19日または21日)もしくはアエノール・ド・ヴェルマンドワAénor de Vermandois)とも称された。1182年から1213年までのヴェルマンドワ女伯であった人物。結婚によりオストゥルヴァンフランス語版伯夫人、ヌヴェール伯夫人、オセール伯夫人、ブローニュ伯夫人、ボーモン=シュル=オワーズフランス語版伯夫人でもあった。

エレオノール・ド・ヴェルマンドワ
Éléonore de Vermandois
ヴァロワ女伯
ヴェルマンドワ女伯
在位 1182年 - 1213年

全名 エレオノール・ド・ヴェルマンドワ・エ・ド・ヴァロワ
Éléonore de Vermandois et de Valois
出生 1148/1149年または1152年10月14日
死去 1218年6月20日
埋葬 エーヌ県ロンポン市、ノートル=ダム修道院
配偶者 ジョフロワ・ド・エノー
  ヌヴェール伯ギヨーム4世
  ブローニュ伯マチュー・ダルザス
  ボーモン=シュル=オワーズ伯マチュー3世
  オーシー卿ユーグ3世
子女 ブローニュ伯マチュー・ダルザスの子
名前不明の娘 (早世)
家名 ヴェルマンドワ家
父親 ヴェルマンドワ伯ラウル1世
母親 ペトロニーユ・ダキテーヌ
役職 政治家
宗教 キリスト教カトリック
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生い立ち 編集

エレオノールは、ヴェルマンドワ伯ラウル1世とその2人目の妻アキテーヌ公ギヨーム10世の娘ペトロニーユ[1]の次女で、両親との間に生まれた3子の末子であった。ヴェルマンドワ伯ラウル2世は実兄、ヴェルマンドワ女伯エリザベートは実姉にあたる[1]。また、父が初婚の妻エレオノール・ド・ブロワとの間にもうけた父の嗣子、異母兄ユーグ2世がいた。

エレオノールの外伯母に当たるフランス王妃アリエノールが夫ルイ7世との関係が冷え込むのと同時に、母ペトロニーユも父ラウルと別居・離婚することになった。

アリエノールはルイ7世との離婚成立数週間後にイングランド王ヘンリー2世と再婚した。

ペトロニーユとの離婚後に父ラウル1世は1152年にローレット・ダルザスと再々婚したが、同年末に死去し、ヴェルマンドワ伯位は長兄ユーグ2世が相続した。

母ペトロニーユの正確な没年は不明だが、1153年10月24日以降であるとされる。

結婚 編集

エレオノールは10代半ばに初婚で、エノー伯ボードゥアン4世[2]の嗣子、オストゥルヴァンフランス語版伯ジョフロワ・ド・エノーに嫁いだ。1162年に結婚したが、ジョフロワは翌年、パレスチナへの巡礼支度の最中に死去した。

1164年、ヌヴェール伯ギヨーム4世[2]フランス語版と2度目の結婚をするが、この結婚もわずか4年で終わり、1168年にギヨームは十字軍遠征でアッコで死去しベツレヘムに埋葬された。

1171年、エレオノールはブローニュ伯マチュー・ダルザスと3度目の結婚をした。その前年にマチューは初婚の妻ブローニュ女伯マリー[2]と離婚している。この結婚で1168年にローマ教皇アレクサンデル3世によって破門の危機にさらされた。

夫との間に1人の娘が生まれたが、幼くして夭折した。フランス王ルイ7世と戦争中のイングランド王ヘンリー2世従属のフランドル軍を率いていたマチューは、1173年にトレントン(現在のヌフシャテル=アン=ブレイフランス語版)の包囲戦で戦闘の最中に、石弓を持った弓兵に射殺され、それ以上子女を生むことはできなかった。

1175年、ボーモン=シュル=オワーズフランス語版伯マチュー3世ドイツ語版[3]4度目の結婚が行われた。2人は17年間結婚し、エレオノールにとって最も長い結婚生活となったが、子宝には恵まれず、1192年、マチューとエレノアは離婚している。[注釈 1]

ド・ラ・シェネ・デ・ボワフランス語版によると、最後にエレオノールは1192年にマチュー3世と離婚した後、オーシー家英語版のユーグ3世と結婚し、子女をもうけたとされている。

しかし、それが事実であった場合、「ヴェルマンドワ伯領は、エレオノール女伯の死後、王家ではなく、彼女との間に生まれた生存する子女達に与えられる(ただし、子女たちが生前に相続権を剥奪された場合は除く)」というフランス王フィリップ2世との取り決めと矛盾している。

ヴェルマンドワ女伯 編集

 

父亡き後ヴェルマンドワ伯位を継いだ長兄ユーグ2世は1160年に爵位を放棄して修道院生活に入り、その後に爵位を継いだ次兄ラウル2世マルグリット・ダルザスと結婚したが1167年に子女がいないままハンセン病で病死、その後爵位を継いだ実姉エリザベートフランドル伯フィリップ・ダルザスと結婚したが、子女がいないまま1183年に死去した。そのため、エレオノールはヴェルマンドワ伯位を正当に相続することができた。

ヴェルマンドワ女伯エリザベートと死別して遺された義兄フィリップ・ダルザスがエレオノールにヴェルマンドワ伯領統治権を譲ることを拒否したため、エレオノールはフランス王フィリップ2世に支援を求めた。1182年3月20日のラ=グランジュ=サン・アルヌール条約により、エレオノールはヴァロワを所領とし、ヴァロワ女伯を名乗ることとなった。[1]

フィリップ2世がボーヴフランス語版フランドル軍に勝利した後、エレオノールはヴェルマンドワフランス語版の一部領地を手に入れ、ヴェルマンドワ女伯を名乗った。[1]

1192年にフィリップ・ダルザスが崩御すると、彼女は残りのヴェルマンドワ領地も相続したが、その条件として、もしエレオノールに子女がいなければ、フィリップ2世がヴェルマンドワを王家領に編入するというものがあった。[4]

それ以来、エレオノールはヴェルマンドワを独占的に支配するようになった。エレオノールは、機知に富み、かつ敬虔な女性として記録されている。エレオノールは、オージェ=サン・ヴァンサン(フランス語版)にパルク=オー=ダム修道院(フランス語版)を設立した。エレオノールは詩を愛し、ルノー大臣に聖ジュヌヴィエーヴフランス語版のローマ字憲法を制定するきっかけを与えている。また、1189年の勅許状により、ノートルダム聖堂に財産を寄進している。

エレオノールは、ヴェルマンドワを21年間支配した後、1213年に60歳で亡くなり、ロンポンフランス語版修道院に葬られた(現在はエーヌ県ロンポン市のノートル=ダム修道院フランス語版に葬られている)。エレオノールの死後、君主フィリップ2世がエレオノールの全財産を管理することになった。

脚注 編集

  1. ^ ショーテルは、この結婚の終わりについて明確な記録がないことを指摘している。コンスタンス・バーマンは、エレオノールとマチューは結婚していたが、エレオノールはヴェルマンドワ伯領を単独で支配していたと主張している[3]

参考文献 編集

  1. ^ a b c d Shortell 2012, p. 162.
  2. ^ a b c Gilbert de Mons 2005, p. 50.
  3. ^ a b Shortell 2012, p. 163.
  4. ^ Shortell 2012, p. 163-164.

情報源一覧 編集

  • Gilbert de Mons Napran訳 (2005). Chronicle of Hainaut. Boydell Press 
  • Shortell, Ellen M. (2012). “Erasures and Recoveries of Women's Contributions to Gothic Architecture: The Case of Saint-Quentin, Local Nobility, and Eleanor of Vermandois”. In Martin, Therese. Reassessing the Roles of Women as 'makers' of Medieval Art and Architecture. 1. Brill. pp. 129-174 


先代
エリザベート
ヴェルマンドワ伯
1182年 - 1213年
次代
フランス王家
後世ルイ14世の庶子ルイ・ド・ブルボンがヴェルマンドワ伯の称号を得たのが最後となった。