ヘンリー1世 (イングランド王)

第3代ノルマン朝イングランド国王 // 『碩学王』

ヘンリー1世碩学王: Henry I Beauclerc 、1068年頃 – 1135年12月1日)とは、12世紀のイングランド王(在位:1100年 - 1135年)である。彼はウィリアム1世の4男として誕生し、幼いころはラテン語自由七科の教育を受けた。1087年にウィリアム1世が死去すると、ヘンリーの兄であるロベールウィリアムがそれぞれノルマンディーイングランド王国を相続し、ヘンリーには領地が与えられなかった。その後、彼は兄ロベールからコタンタン伯領を購入したが、1091年に兄たちによって追放された。その後、彼は徐々にコタンタンで勢力を回復し、ウィリアム2世と同盟を結んでロベールと対抗した。

ヘンリー1世
Henry I
マシュー・パリス英語版の著作『イングランドの歴史(Historia Anglorum)』(1253年頃)に描かれたヘンリー1世のミニアチュール。 右手に抱えているの建物は、彼が死後埋葬されたレディング大修道院英語版を示している。

戴冠 1100年8月5日
先代 ウィリアム赤顔王
次代 スティーブン (マティルダと対立)

在位期間
1106年1120年
先代 ロベール短袴公
次代 ギヨーム・アドラン
先代 ギヨーム・アドラン
次代 スティーブン(エティエンヌ)

出生 1068年頃
イングランド
ヨークシャー
セルビー英語版?
死亡 1135年12月1日
フランス
ノルマンディー
リヨン=ラ=フォレ英語版
埋葬 レディング大修道英語版
王室 ノルマンディー家
父親 ウィリアム征服王
母親 マティルダ・オブ・フランダース
配偶者 マティルダ・オブ・スコットランド
アデライザ・オブ・ルーヴァン
子女
嫡出子 非嫡出子
テンプレートを表示

ヘンリーは、兄ウィリアムが狩猟事故で亡くなった際にイングランドに滞在しており、その直後にイングランド王位を奪取し、戴冠式においてウィリアムの不評な政策を改めることを約束した。彼はマティルダ・オブ・スコットランドと結婚し、マティルダウィリアム・アデリンの2人の子をもうけたが、多くの愛妾との間に多くの庶子もいた。1101年、兄ロベールはノルマンディーからイングランドに侵攻し、ヘンリーと統治を争った。この軍事衝突は、ヘンリーの王位を確認する和平協定によって終結した。しかし、和平は短命に終わり、ヘンリーは1105年から1106年にかけてノルマンディー公国に侵攻し、タンシュブレーの戦いでロベールを決定的に破った。ロベールはその後終生幽閉された。

ヘンリーのノルマンディー統治は、フランス王ルイ6世フランドル伯ボードゥアン7世、およびアンジュー伯フルク5世によって挑戦され、彼らはロベールの息子ギヨーム・クリトンの王位請求を支持し、1116年から1119年にかけてノルマンディーで大規模な反乱を支援した。しかし、ヘンリーはブレミュルの戦い英語版で勝利を収め、1120年にはルイ6世との有利な和平条約を締結した。

当時の人々はヘンリーを厳格だが有能な統治者と見ていた。彼はイングランドとノルマンディーの貴族を巧みに操り、イングランドではアングロ・サクソン系の司法・地方行政・税制を活用しつつ、王室財務府や巡回裁判官といった新たな制度を導入して強化した。ノルマンディーでも同様に、裁判官の制度と財務府を整備した。ヘンリーの官僚機構は、貴族出身ではない「新興階層」の人物を登用する特徴があり、多くの官僚は家柄ではなく行政能力によって出世した。彼はグレゴリウス改革を奨励したが、1101年にはカンタベリー大司教アンセルムスと深刻な対立に陥り、1105年に妥協によって和解した。彼はクリュニー派を支援し、イングランドとノルマンディーにおける高位聖職者の任命に重要な役割を果たした。

1120年、王子ウィリアムがホワイトシップ号の海難事故で溺死するという事件が起き、王位継承に不安が生じた。ヘンリーは後継の男子を得るためにアデライザ・オブ・ルーヴァンと再婚したが、彼女との間に子供は生まれなかった。そのため、彼は娘マティルダを正式な後継者と宣言し、彼女をアンジュー伯ジョフロワ5世と結婚させた。しかし、ヘンリーとマティルダ夫妻の関係は悪化し、アンジューとの国境地帯では戦闘が発生した。ヘンリーは1135年12月1日、病により死去した。彼の計画にもかかわらず、王位は甥のブロワ伯ステファンが継承し、これによって無政府時代と呼ばれる内戦が勃発した。

若年期 1068年–1099年

編集

少年時代・容姿 1068年–1086年

編集

ヘンリーはおそらく1068年の夏か年末のいずれかにイングランドで生まれた可能性が高く、セルビー英語版ヨークシャー)の町で生まれたとも考えられている[1][nb 1]

彼の父はウィリアム征服王ノルマンディー公)であり、ノルマン・コンクエストによってイングランドを征服し、イングランド王となった。これにより、彼の領土はウェールズにも及ぶこととなった。この征服によって、イングランドとイングランド海峡の両側に所領を持つアングロ・ノルマン人英語版の支配階級が生まれた[2]。これらのアングロ・ノルマン人貴族は通常、当時まだ緩やかな統治のもとにあったフランス王国と密接な関係を持っていた。フランス王国は実際には伯爵領や小規模な領地の集合体にすぎず、名目上のみフランス王の支配下にあった[3]。ヘンリーの母であるマティルダ・オブ・フランダースはフランス王ロベール2世の孫であり、おそらく彼女の叔父にあたるアンリ1世にちなんでヘンリーと名付けたと考えられている[4]

ヘンリーは、ウィリアムとマティルダの4人の息子の中で最年少だった。外見は兄たちのロベールリシャールウィリアムと似ており、歴史家デイヴィッド・カーペンター英語版によれば「背が低く、がっしりとしており、樽のような胸を持ち、黒髪だった」という[5]。年齢の違いや兄リシャールの早逝のため、ヘンリーは兄たちと過ごす時間が比較的少なかったと考えられる[6]。一方で、妹のアデル・ド・ノルマンディーとは年齢が近かったため、親しい関係にあった可能性が高い[7]。ヘンリーの幼少期についての記録はほとんど残っていないが、歴史家ウォーレン・ホリスター英語版キャスリーン・トンプソン英語版は、ヘンリーが主にイングランドで育てられたと推測している。一方で、ジュディス・グリーン英語版は、始めはノルマンディー公国で育てられたと主張している[8][nb 2]。ヘンリーはおそらく教会教育を受けており、当時大法官を務めていたオズモンド司教英語版の指導の下、ソールズベリー大聖堂で教育を受けていた可能性がある。しかし、これはヘンリーを聖職者にする意図によるものだったかどうかは不明である[10][nb 3]。ヘンリーの教育の程度は定かではないが、ラテン語を読むことができ、自由七科の基礎的な知識を持っていたと考えられる[11]。彼はロベール・アシャール(Robert Achard)という人物の軍事的指導を受け、1086年5月24日に父ウィリアム王によって騎士として叙任された[12]

継承 1087年 – 1088年

編集
 
13世紀に描かれたヘンリー1世の肖像

1087年、ウィリアム1世 (イングランド王)ヴェクサンでの遠征中に致命傷を負った[13]。ヘンリーは9月に瀕死の父がいるルーアンを訪れ、ウィリアム王は自身の領地を息子たちに分割した[14]。当時の西ヨーロッパにおける継承のルールは明確ではなかった。一部のフランス地域では、長男が称号を継承する長子相続が広まりつつあったが[15]ノルマンディー公国やイングランドを含む他の地域では伝統的に分割相続が採用されており、長男が父祖伝来の土地(通常最も価値のある土地)を相続し、次男以下の息子はより小さな土地や新たに獲得した領地を与えられるのが一般的だった[15]

ウィリアムは土地を分割する際、ノルマンの伝統に従い、相続したノルマンディー公国と戦争で獲得したイングランド王国を区別して考えていたようである[16]。次男のリシャールは狩猟事故で相続前に亡くなっていたため、ウィリアムの遺産はヘンリーと2人の兄に分配された。長男のロベールは父の死の直前まで父王に対して反乱を起こしていたにもかかわらず、ノルマンディーを継承した[17]。イングランドは瀕死の国王に寵愛されていた3男ウィリアムに与えられた[17]。ヘンリーには5,000ポンドとされる多額の金が与えられ[18][19]、さらに母が所有していたバッキンガムシャーグロスターシャーといったささやかな領土も加えて相続する見込みだった[20][nb 4]カーンで執り行われた亡きウィリアム王の葬儀が地元の住民による激しい抗議によって混乱した際、ヘンリーが銀貨を支払うことでこの問題を解決した可能性がある[22]

ロベール(公爵位継承後、短袴公とあだ名されていた。)は、ノルマンディー公位とイングランド王位の両方を継ぐものと考えていたが、実際には3男ウィリアム(ウィリアム2世・ウィリアム赤顔王とも。)がイングランドへ渡り、王として即位していた[23]。2人の兄弟は継承問題で根本的に対立し、ロベールはイングランド王位を奪取するための侵攻・イングランド王に対する反乱を計画し、一部の有力貴族から反乱の支援を受けた[24]。一方のヘンリーはノルマンディーに留まり、ロベールの宮廷で活動した。これは、ヘンリーが公然とウィリアム2世に味方するのをためらったか、もしくはノルマンディーを離れればロベールに相続資金を没収される危険があったためと考えられる。[23][nb 5]ウィリアム2世はヘンリーが相続したイングランド王国内の新領地を差し押さえ、ヘンリーは自身の領土をすべて失うこととなった[26]

1088年、ロベール公のイングランド侵攻計画は頓挫し、彼はヘンリーに資金の貸し付けを求めたが、ヘンリーはこれを拒否した[27]。その代わりに、ロベールは3,000ポンドと引き換えにヘンリーをノルマンディー西部の伯爵とすることで合意した[27][nb 6]。ヘンリーがロベール公から獲得した新領地はコタンタン半島を中心にアヴランシャン地域にもまたがる規模であり、両地域の司教区を支配下に置いた[29]。これにより、ヘンリーはノルマンディーの有力貴族であるヒュー・ダヴランシュ英語版リチャード・ド・レヴル英語版、さらにはモン・サン=ミシェル修道院を影響下に置くことになった[30]。一方、ロベール公の侵攻軍はノルマンディーを出発することができず、イングランドでのウィリアム赤顔王の地位は安泰なものとなった[31]

コタンタン伯(1088年–1090年)

編集
 
中央でこん棒を振るうバイユー司教オド英語版。彼は1088年から1089年にかけてヘンリーを幽閉した。バイユーのタペストリーより。

ヘンリーは素早く伯領の支配を確立し、ノルマンディー公国西部とブルターニュ東部にまたがるヘンリー支持者のネットワークを築いた。歴史家ジョン・ル・パトゥレル英語版は、これを「ヘンリーの一党(Henry's Gang)」と評している[32]。この頃彼を支持した者の中には、ロジャー・オブ・マンデヴィル英語版リチャード・ド・レヴル英語版リチャード・ダヴランシュロベール・フィッツハモン英語版、そしてソールズベリー司教ロジャー英語版が含まれていた[33]。やがて、ロベール公はヘンリーとの合意を反故にし伯領を取り戻そうとしたが、ヘンリーの支配力はすでに盤石となっておりこれを阻止した[34]。ロベールのノルマンディー統治は混乱を極め、ヘンリーの領地の一部は宗主国であるルーアンの支配をほぼ脱し、半独立国家の様相を成していた[35]

この間、ウィリアム赤顔王ロベール短袴公も、ヘンリーを信用していなかったようである[36]。1088年7月、イングランドでの反乱が収束すると、ヘンリーはイングランドへ渡って国王の兄ウィリアムに謁見した[37]。母の遺領でヘンリーの相続分であった領土を返還するようウィリアム王に説得を試みたものの説き伏せることはできず、秋に再びノルマンディーへ戻った[38]。その間に、バイユー司教オド英語版(ウィリアム征服王の異母弟。ロベール短袴公に仕えていた。)はヘンリーを潜在的な脅威と見なし、ロベールに対して「ヘンリーがウィリアム2世との共謀を図っている」と吹き込んだ[39]。その結果、ヘンリーはノルマンディーに戻るな否やオド司教に捕らえられ、ノイイ=ラ=フォレ英語版に幽閉され、ヘンリーの領土はロベール公に没収された[40]。ヘンリーはその冬の間中幽閉され続けたが、1089年の春にノルマンディーの有力貴族たちの圧力に屈したロベール公によって釈放された[41]

釈放されたヘンリーはもはや正式なコタンタン伯ではなかったが、ノルマンディー西部の実質的な支配を維持した[42]。その後も兄弟間の争いは続いた。ウィリアム2世はイングランドで反対勢力を鎮圧しつつ、ノルマンディー公国内の諸侯並びに隣接するポンチュー伯領内の有力貴族たちと同盟を結び、ロベールに対抗した[43]。一方、ロベールはフランス王フィリップ1世と同盟を結んだ[44]。1090年末、ウィリアム2世はルーアンの有力市民であるコナン・ピラトゥス英語版を扇動し、ロベールに対する反乱を起こさせた。コナンはルーアンの住民の支持を得て、近隣の公爵領の守備隊にも離反を呼びかけた[45]

ロベールは貴族たちに救援を求め、それに応えたヘンリーが最初に11月にルーアンへ到着した[46]。ここで激しい市街戦が発生し、双方が街の支配を巡って争った[46]。ロベールとヘンリーは城から打って出て戦闘に加わったが、ロベールはすぐに撤退し、ヘンリーだけが戦い続けた[47]。戦局はロベール公側に傾き、ヘンリーはコナンを捕虜とした[47]。コナンは封建領主に反逆したことを理由にヘンリーの怒りを買い、ルーアン城の頂上まで連れて行かれた。彼は多額の身代金を申し出たが、ヘンリーはそれを拒否し、城の塔から突き落として処刑した[48]。この処刑は、当時の人々の間では「見せしめ」として正当な行為と見なされ、ヘンリーはこの戦いでの活躍によって名声を得ることになった[49]

没落と復権 1091年 –1099年

編集
 
モン・サン=ミシェルノルマンディー)、1091年の包囲戦の舞台

この戦いの余波として、ロベールはヘンリーにルーアンを去るよう強いた。これは、おそらく戦闘におけるヘンリーの活躍がロベール自身のそれを上回っていたためであり、あるいはヘンリーがコタンタン伯への正式な復帰を求めたためである可能性がある[50]。1091年初頭、ウィリアム赤顔王は大軍を率いてノルマンディーに侵攻し、ロベールを交渉の場へと引きずり出した[51]。兄弟はルーアンで条約を締結し、ウィリアム王はノルマンディー内のいくつかの土地と城を得た。その見返りとして、彼はロベールのメーヌ伯領奪還の試みを支援しノルマンディー公国の支配を回復するための援助を約束した。その中にはヘンリーの領地も含まれていた[51]。さらに、二人は互いをイングランドとノルマンディーの後継者と指名し、ヘンリーを継承順から排除した[52]

こうしてヘンリーと兄たちの間で戦争が勃発した[53]。ヘンリーはノルマンディー西部で傭兵軍を動員したが、ウィリアム王とロベール公の軍勢が進軍するにつれ、彼を支持する諸侯たちは離反していった[54]。ヘンリーは最後の拠点としてモン・サン=ミシェルに立てこもり、おそらく1091年3月に兄たちの軍勢に包囲された[55]。この要塞は防御に適していたが、淡水の供給が不足していた[56]。年代記作家マルムズベリーのウィリアムによると、立てこもるヘンリー陣営の水が尽きかけたとき、ロベールは彼に水の補給を許可し、これに反発したウィリアム王との間で口論を引き起こしたという[57]。包囲戦の最終局面の詳細は不明だが、包囲側は今後の戦略をめぐって対立し始め、最終的にヘンリーはモン・サン=ミシェルを放棄した。これはおそらく交渉による降伏の一環だったと考えられる[58][nb 7]。彼はブルターニュへ逃れ、その後フランスへ渡った[59]

ヘンリーのその後の動向は不明確であるが、当時の年代記作家オルデルリック・ヴィタリス英語版によれば、彼はノルマンディー国境付近の街、ヴェクサン近辺を小規模な従者とともに1年以上にわたり放浪していたという[60]。その間にロベール公とウィリアム王の関係は再び悪化し、ルーアン条約は破棄された[61]。1092年、ヘンリーはノルマンディーの町ドンフロン英語版を奪取した[62]。この町は以前はロベール・オブ・ベレームの支配下にあったが、住民たちは彼の統治を嫌いヘンリーを迎え入れた。そのため、戦闘なしに支配権が移行したとされる[63]。以降2年間、ヘンリーはノルマンディー西部で支持基盤を再建し、ジュディス・グリーンによれば「待機中の宮廷」を形成した[64]。1094年までには、ノルマンディー公のように家臣に土地や城を与えるようになっていた[65]。ウィリアム王はそんなヘンリーを支援し、資金を提供した。ヘンリーはこれを用いてドンフロン城英語版を築いた[66]

1094年、ウィリアム王はノルマンディーへ渡り、ロベール公との戦争を開始した。しかし進展は遅れ、ヘンリーにも支援を求めた[67]。ヘンリーは応じたものの、ノルマンディー東部の主戦場には向かわず、ロンドンへと赴いた。これはおそらく王の要請によるもので、結局ウィリアム王は軍地作戦を中断してイングランドへ帰還した[68][nb 8]。その後数年間、ヘンリーはノルマンディー西部で勢力を強め、イングランドへも度々赴いた[70]。1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世第1回十字軍を呼びかけた[69]。ロベール公は十字軍に参加するため、ウィリアム王から軍資金を借り、その代償として公国の一部の支配権を王へ委ねた[71]。ウィリアム王はノルマンディー全土の奪還を確信し、ヘンリーとの関係はより緊密になった。彼らは1097年から1098年にかけてヴェクサンで共に戦った[72]

治世初期 1100年 – 1106年

編集

王位就任 (1100年)

編集
 
17世紀に描かれたヘンリー1世の戴冠式の様子

1100年8月2日の午後、ウィリアム王はニューフォレストで狩猟を行っていた。同行していたのは狩猟隊とノルマンの貴族たちで、その中にはヘンリーも含まれていた[73]。家臣のウォルター・ティレル英語版が放った矢がウィリアム王に命中し、彼は死亡した[74]。この事件については、陰謀説が多く唱えられてきたが、そもそも狩猟は危険な活動でありこうした事故は珍しくなかったため、多くの歴史学者は事故説を支持している[75][nb 9]。事件後、混乱が生じ、ティレルはフランスへ逃亡した。これは、彼が矢を放った本人だったためか、あるいは誤って疑われ、国王殺害の責任を負わされることを恐れたためと考えられる[74]

ヘンリーはすぐさまウィンチェスターへ向い、そこで王位継承を巡る議論が引き起こされた[77]。ウィリアム王の家臣ウィリアム・ド・ブルトゥイユ英語版は、まだ十字軍遠征から戻っていなかったロベール公の王位継承権を主張した。(ヘンリーと諸侯たちはかつてロベールに臣従の誓いを立てていた[78]。)しかし、ヘンリーは、自分が在位中の国王と王妃の間に生まれたことを理由に、「ポルフィロジェニトゥール英語版(紫衣誕生)」の権利を主張した[79]。激しい議論の末、ヘンリーはヘンリー・ド・ボーモン英語版ロベール・ド・ムーラン英語版の支援を受け、諸侯たちを味方につけた[80]。彼はウィンチェスター城英語版を占拠し、王室財宝を押収した[81]

ヘンリーは8月5日、ウェストミンスター寺院で急遽戴冠した[18][82]。司式を務めたのはロンドン司教英語版モーリス英語版であった。なぜなら、カンタベリー大司教アンセルムスはこの頃ウィリアム王によって追放されており、ヨーク大司教トマス・オブ・バイユー英語版は北部のリポンにいたためである[83]。イングランドの伝統との調和・即位の正当性の誇示を図ったヘンリーはマグナカルタの祖とも言われる[84]戴冠憲章英語版を発布し、さまざまな公約を示し[85]、新たな王として自らを混乱に満ちた国に秩序を取り戻した存在として示した[86]。また、ウィリアム王が存命中に発布した教会政策(聖職者から反発を受けていた)を撤回し、聖職者の支持を得ることを誓った。さらに、貴族の財産権を尊重し、エドワード懺悔王の時代の穏やかな慣習に戻すと約束し、「国家の安定」を確立し「以降平和を維持する」ことを宣言した[87]

ヘンリーは既存の支持者たちに加え、先代から続く官僚制度の多くを自らの宮廷に取り込んだ[88]。ウィリアム赤顔王時代の大法官であったウィリアム・ギファード英語版ウィンチェスター司教英語版に任命され、著名な保安官であるウルス・ダベト英語版ハイモ・ダピフェル英語版ロバート・フィッツハモン英語版も引き続き政府内で要職を務めた[88]。一方、前政権の重鎮であったダラム司教英語版ラヌルフ・フランバード英語版ロンドン塔に投獄され、汚職の罪で訴えられた[89]。ヘンリーはまた、空席となっていた多くの聖職者の職位に対する任命を進め、新政府への支持を固めることを目指した[90]。これらの任命には聖別が必要であったため、ヘンリーはアンセルムスに書簡を送り、アンセルムスがフランスにいる間に戴冠式を済ませてしまったことを謝罪するとともに、すぐに帰国するよう要請した[91]

マティルダとの結婚 (1100年)

編集
 
ヘンリーの最初の王妃マティルダ

1100年11月11日、ヘンリー1世はスコットランド王マルカム3世の娘であるマティルダ[92]ウェストミンスター寺院で結婚した。ヘンリー1世は当時およそ31歳であったが、11世紀において貴族の男性が晩婚となることも珍しくはなかった[93]。2人はおそらくその10年ほど前の早い時期に初めて顔を合わせており、オズムンド英語版によって引き合わされた可能性もある[94]。歴史家ウォーレン・ホリスターは、ヘンリー1世とマティルダが感情的に親密な間柄であった一方で、その結婚には確実に政治的な動機もあったと主張している。[95][nb 10]。マティルダは元々エディスというアングロ・サクソン系の名前で呼ばれており、ウェセックス家の出身で、エドガー・アシリングの姪であり、エドマンド2世(剛勇王)の曾孫であり、アルフレッド大王の子孫でもあった[97]。ヘンリー1世にとってマティルダとの結婚は自らの統治にさらなる正統性を与えるものであり、野心的な女性であったマティルダにとっては、それはイングランドにおける高い地位と権力を得る機会となった[98]

マティルダは以前から一連の修道院で教育を受けており、正式に修道女となる誓いを立てた可能性があったため、結婚の進展に障害が生じた[99]。 彼女は修道女になることを望まず、アンセルムス大司教にヘンリーとの結婚の許可を求めた。そして、大司教はこの問題を審議するためにランベス宮殿で評議会を開催した[99]。一部に異論はあったものの、評議会は、マティルダは修道院で生活していたが実際には修道女にはなっていないため結婚は可能であると結論づけた。この判断をアンセルムスが確認し、結婚が進められることとなった[99][nb 11]。マティルダはヘンリーにとって有能な王妃であったとされ、時折イングランドで摂政を務め、評議会で演説や議長を務め、さらに芸術活動を広範に支援した[101]。二人の間には間もなく、1102年生まれのマティルダと、1103年生まれのウィリアム・アデリン という二人の子供が生まれた。また、早世した次男リチャード英語版 がいた可能性もある[102][nb 12]。これらの子供が生まれた後、マティルダはウェストミンスター を拠点として活動を続け、一方のヘンリーはイングランドやノルマンディーの各地を巡った。これは宗教的な理由によるものか、あるいは彼女自身が王権の統治機構に関与することを好んだからかもしれない[104]

ヘンリーは旺盛な性的欲求を持ち、多くの女性と関係を持った。その結果、多くの庶子をもうけ、少なくとも9人の息子と13人の娘がいたとされる。彼はその多くを認知し、支援していたようである[105]。未婚のアングロ・ノルマン人英語版男性貴族が娼婦や地元の女性と関係を持つことは一般的であり、王もまた公然と愛妾を持つことが期待されていた[106][nb 13]。こうした関係の一部はヘンリーが結婚する前から持たれたが、結婚後も多くの女性と関係を持ち続けた[107] 。彼の愛妾は様々な背景を持っており、その関係は比較的公然と持たれていたようである[104]。彼は一部の高貴な出自の愛妾を政治的な目的で選んだ可能性もあるが、それを示す証拠は限られている[108]

アルトン条約(1101年–1102年)

編集
 
14世紀初頭に描かれたヘンリーの肖像

1101年初頭までに、ヘンリーの新政権は確立され機能していたが、アングロ・ノルマン人英語版 の多くの貴族は依然として彼の兄であるロベール公を支持しており、彼らはロベールがイングランドでの権力掌握の可能性を示せば寝返る準備ができていたとされる[109]。2月、ラヌルフ・フランバード英語版ロンドン塔から脱獄し、ノルマンディーへ渡った。彼の到着により、ロベールは新たな指導力と活力を得て、侵攻軍の編成を進めた[110]。7月までにロベールは軍と艦隊を整え、ヘンリーを攻撃する準備を整えた[111]。対立の緊張が高まる中、ヘンリーはラヌルフの領地を没収し、アンセルムス大司教の支持を得て、ラヌルフをダラム司教の職から解任した[112]。4月と6月にヘンリー王は宮廷を開き、貴族たちに忠誠の誓いを新たに立てさせたが、その支持は依然として部分的でかつ不安定なものであった[113]

ロベール公の侵攻が迫る中、ヘンリーは兵力を集め、ロベールの上陸が予想されるペヴェンジー近郊に艦隊を配置し、一部の兵を手ずから訓練し、騎兵突撃に対する応じ技を指導するなどした[114]。ヘンリー王の元には聖職者の軍務義務に基づく騎士や民兵が多数集まったものの、王に仕える貴族の多くは参集しなかった[115]。アンセルムスはヘンリー王に対して懐疑的な者たちを説得し、ヘンリーへの忠誠の宗教的意義を強調した[116]。7月20日、ロベール公は予想外にもわずか数百人の兵と共にポーツマスに上陸した。小勢のロベール軍であったが、上陸後に多くのイングランド貴族がロベール公の下に結集した[117]。ロベールは近隣のウィンチェスターに進軍してヘンリーの財宝を押収するといった行動を起こさず、進軍をとめた。これによりヘンリーは西へ進軍し、侵攻軍を迎撃する時間を得た[118]

両軍はハンプシャー地域の街アルトン英語版 で対峙し、和平交渉が始まった。交渉はヘンリーまたはロベールのいずれかの提案により開始され、フランバードも関与したと考えられる[118]。両者はアルトン条約英語版に合意した。それによれば、ロベール公はヘンリー王への臣従の誓いを解き、彼をイングランド王として正式に認め、ヘンリー王がドンフロン英語版を除く西ノルマンディーの領有権を放棄し、ロベールに毎年2,000ポンドの年金を支払うことが取り決められ、いずれかの兄弟が男子継承者を持たずに死去した場合、もう一方がその領地を相続するという相続に関する取り決めもなされ、ロベール公・ヘンリー王の争乱の間に没収された貴族の領地は返還され、フランバードは司教職に復帰し、両者は協力してノルマンディーの領土を防衛するという約定も同時に取り決められた[119][nb 14]。ロベールはヘンリーと共にイングランドに数か月滞在した後、ノルマンディーへ戻った[121]

しかし、条約締結後もヘンリーはロベール軍侵攻時に彼に敵対した貴族たちに厳しい処罰を加えた[122]。その一環でウィリアム・ド・ワーレンは、新たな罪を問われ、アルトン条約の恩赦の対象外としてイングランドから追放された[123]。また、1102年にはヘンリーはロベール・ド・ベレーム英語版とその兄弟たちに対し反逆の罪を追及し、彼に45件もの罪状を突きつけた[124]。ロベールは逃亡し、武装蜂起した[125]。対してヘンリーは彼の拠点であるアランデル城ティックヒル城英語版シュルーズベリー城英語版を包囲し、さらに南西へ進軍してブリッジノース英語版を攻撃した[126]。最終的にロベールは降伏し、ヘンリーの条件を受け入れてノルマンディーへ追放された[127]

ノルマンディー征服(1103年–1106年)

編集
 
2008年のタンシュブレー英語版村の風景。1106年のタンシュブレーの戦いの古戦場跡

1103年までにヘンリー王はノルマンディーにおける同盟網を強固なものとした[128]。彼は庶子のジュリアン・ド・フォントヴロー英語版マティルダ英語版を、それぞれウスタシュ・ド・ブレトイユとペルシュ伯英語版ロトルー3世英語版に嫁がせ、後者の結婚によってノルマンディーの国境地域を自陣営に加えた[129]。ヘンリーは他のノルマン貴族を味方につけるため、ノルマンディー公国内のカギとなる主要諸侯たちに対してイングランドの所領や利益を提供した[130]。一方で、ノルマンディー公ロベールは対立するロベール・ド・ベレームとの戦闘を続けていたが、自身の状況が悪化したことを受けて、1104年には現状を打破するべく彼と正式に同盟を結ばざるを得なくなった[131]。ヘンリーはロベール公が条約の条件に違反したと主張し、ドンフロンに渡ってノルマンディー中の有力貴族と会談し、彼らを味方につけた[132]。彼はロベール公と対面し、敵と結託したと非難した後、イングランドへ戻った[133]

ノルマンディーの混乱は続き[134]、1105年、ヘンリーは親友のロベール・フィッツハモン英語版と騎士分隊を派遣し、ノルマンディー公ロベールを挑発した[135]。フィッツハモンは捕らえられたが、ヘンリーはこれを侵攻の口実とし、秩序回復を名目に進軍した[134]。彼はノルマンディー国境周辺の伯たちの支持を得て、フランス王フィリップ1世を中立にとどめることに成功した[136]。ヘンリーは西ノルマンディーを占領し、フィッツハモンが囚われていたバイユーへ向けて東進したが[137]、バイユーは降伏せず、結局包囲戦の末に焼き払われた[137]。これに恐れをなしたカーンはヘンリー側に寝返り、カーンを経由してさらに進軍を進め、一定の損害を出しつつもファレーズを制圧した[138]。しかし、その後の戦況は膠着し、ヘンリーはロベール公との和平交渉を開始したが、交渉は成立せず[139]、戦闘はクリスマスまで続いた。そしてヘンリーはクリスマスの時期にイングランドへ戻った[140]

1106年7月、ヘンリーはロベール公爵軍と決戦を挑むべく、ノルマンディー公国に再侵攻を開始した[141]。ヘンリー軍は初期の戦術的成功を収めた後、南西へ進軍し、タンシュブレー英語版城を包囲した[142]。これを救援するため、ロベール公はロベール・ド・ベレームとともに軍を率いてファレーズから出陣した[142]。両者はいったん交渉を行ったが決裂し、おそらく9月28日に両軍は激突した[143][nb 15]。両軍の戦闘はロベール公軍の騎兵突撃で始まり、両軍の歩兵と下馬騎士が激しく戦い続けたとされ、戦闘自体は1時間にも及んだ[145]。結果、メーヌ伯英語版エリー1世ブルターニュ公アラン4世が率いるヘンリー軍後衛部隊がロベール公軍の側面を攻撃したことで、ロベール・ド・ベレームの軍勢、次いでロベール公軍の大半が潰走した[146]。ロベール公は捕虜となったが、ロベール・ド・ベレームは逃亡し戦場から逃れた[146]

ロベール公軍の本隊を打ち破ったヘンリーは、ノルマンディーの残存勢力を掃討し、ロベール公は最後の守備隊に降伏を命じた[147]。その後ヘンリー王はルーアンに入城し、ノルマンディーの法と慣習を再確認した上で有力貴族や市民からの臣従を受けた[148]。タンシュブレーの決戦で捕虜となった下級貴族は釈放されたが、ロベール公と数名の有力貴族は期限なしの監禁生活を強いられた[149][18][150][151]。ロベール公の息子で当時3歳だったギヨーム・クリトンは、ノルマン貴族エリアス・ド・サン=サーン英語版に引き取られた[152]。ヘンリーはロベール・ド・ベレームと和解し、彼が占領した公領を返還させた上で、宮廷に復帰させた[153]彼には公位を合法的に剥奪する手段がなかったため、当初は「公爵」の称号を避け、イングランド王として動乱の公国を管理しているだけだと強調した[154]

政治体制・宮廷

編集
 
ヘンリー1世

政治、法、宮廷

編集
ヘンリーの王室の印章。馬上の姿(左)と玉座に座る姿(右)

ヘンリーはウィリアム赤顔王からイングランド王国を継承し、ウェールズスコットランドに対する宗主権を主張できる立場となった。そして上述の経緯からノルマンディー公国をも手中に収めたが、この公国は国境問題を抱える複雑な地域であった[155]。ヘンリー王の治世中、イングランドとスコットランドの国境は依然として不確定であり、カンブリアを通じてアングロ・ノルマン人の影響力が徐々に北へと拡大していた。しかし、当時のスコットランド王デイヴィッド1世との関係は概ね良好であり、それはヘンリーとデイヴィッド王の姉マティルダとの結婚によるものが大きかった[156]。ウェールズでは、ヘンリーは自らの権力を駆使して先住のウェールズ人諸侯を懐柔しつつ、ノルマン人辺境領主英語版たちの南ウェールズ渓谷地帯への勢力を拡大政策を支援した[157]。ノルマンディーでは、ヘンリーは公爵の家臣団、教会関係者、親族との関係を重視し、さらに国境沿いに重要な城塞群を築きながら統治を進めた[158]。特にノルマンディーの国境に接する伯領との同盟関係は、公国の安定維持にとって重要な案件であった[159]

ヘンリーはイングランドとノルマンディーの貴族・領主を通じて統治を行い、彼らを巧みに操ることで政治的な影響力を拡大した[160]。12世紀には政治的友好関係(ラテン語でamicitiaと呼ばれていた。)が重要視されており、ヘンリーも広範な関係を築き、必要に応じて派閥間の仲介をしたり、王に忠誠を示した者には報酬を与えるなどした[161]。一方で王に反抗する貴族には厳しい罰を下し、情報・密偵網を駆使して情勢を掌握した[162]。ヘンリーは冷酷で厳格な支配者であったが、当時の基準から見れば極端なものではなかった[163]。時間とともに彼の支配力は強まり、敵対者を排除し、友好関係を深めることで、歴史家ウォーレン・ホリスター英語版 が「再編された貴族層」と呼ぶような、王に忠実で依存的な支配階層を形成した[164]

ヘンリー王の移動宮廷は、いくつかの組織で構成されていた[165]。その中心は王の私的家政機関であるdomus(ドムス)で、これより広範な集団はファミリア・レジス英語版(familia regis)と呼ばれ、宮廷の公式な集まりはキュリア・レジスと呼ばれた[166]domus はいくつかの部門に分かれ、大法官が率いる宮廷礼拝堂は王室文書を管理し、会計部門は財務を担当し、Master-Marshalと呼ばれる役職の者は宮廷の移動・宿営を担当した[167]ファミリア・レジス には王の騎馬親衛隊も含まれており、その規模は最大で数百名強に及び、また所属する戦士の社会的出自も多様で、必要に応じてイングランド・ノルマンディーの各地に派遣できるよう編成されていた[168]。ヘンリーは当初、父王の慣例に倣いキュリアで定期的に王冠戴冠式を行っていたが、次第に頻度は減少した[169]。彼の宮廷は豪華絢爛であったとされ、新しい宮殿や城の建設資金を調達し、貴重な贈り物を展示し、王自身のウッドストック宮殿英語版には異国の動物を集めた私設動物園を設けていた[170]。それにもかかわらず、ヘンリーの宮廷は先代の王よりも厳格に統制されていた[171]。宮廷の規律は厳しく、かつてウィリアム2世の時代に見られた近隣村落での略奪行為は厳禁とされた[171]

また、ヘンリーは王室司法制度の大幅な拡充も主導した[172][nb 16]。イングランドでは既存のアングロ・サクソン法英語版に基づく司法・地方行政・課税制度英語版を強化し、より中央集権的な政府機関を整備した[174]ソールズベリー司教ロジャー英語版は1110年頃から王室財務府(イクスチェッカー)の制度を整備し、王の州代官たちが各州(シャイア)で徴収した収入を管理・監査する機関へと発展させた[175]。また、巡回裁判官の制度がヘンリーの治世に始まり、全国を巡回しながら巡回裁判英語版 を運営し、多くの法が正式に記録されるようになった[176]。王室裁判の拡大に伴い、罰金や手数料による収入も増加した[177]。1130年に作成された最初のパイプ・ロールが現存しており、王室の支出が記録されている[178]。ヘンリーは1107年、1108年、1125年に貨幣制度の改革を行い、貨幣の質を低下させた造幣工に厳しい身体刑を科した[179][nb 17]。ノルマンディーでは1106年の征服後、ヘンリーは法と秩序の回復に努めた。彼はノルマンディーの司法官たちを通じて統治を行い、イングランドの財務府と類似した制度をノルマンディーにも導入した[181]。こうしたノルマンディーの統治機構は、イングランドに比べると発展の速度は遅かったものの、規模と範囲の両面で拡大していった[182]。こうした制度を担った官僚の多くは「新しい人々」と呼ばれ、比較的低い身分から昇進した者たちで、司法や財務の管理に従事していた[183][nb 18]

また、国王不在時の行政の最高責任者である最高法官英語版が先述の組織を管轄に置いて行政・財政・司法を担当、国王の長期不在には最高法官と尚書部長官、宝蔵室長官が代理統治する体制を作った。そしてキュリア・レジスに常任裁判官も加え、この組織や王に代わる裁判担当と最高法官の補佐の役目を与え、地方を巡回して王領の経営状況を調査、住民訴訟も扱う巡回裁判も定期化させた。こうした基盤固めに成功したおかげでイングランドは安定、1106年以後治世の半分をノルマンディーで過ごせるようになった[nb 19][18][185]

教会との関係

編集

教会と国王

編集
 
カンタベリー大司教アンセルムスの印章

ヘンリーの統治能力は、イングランドとノルマンディー両地域の行政の中核を担う教会と密接に結びついており、その関係は彼の治世の中で大きく変化した[186]。かつて、ウィリアム征服王カンタベリー大司教ランフランクスの支援を受けてイングランド教会を改革し、彼を側近かつ助言者とした[187][nb 20]。しかし、ウィリアム2世の治世ではこの関係が崩壊し、国王と大司教アンセルムは対立してアンセルムス大司教は亡命を余儀なくされた。ヘンリーも教会改革を支持していたが、イングランドでの統治を開始するとすぐに、叙任権闘争に巻き込まれた[189]

この聖職叙任権論争は、新たに任命された司教に対して誰が杖と指輪を授けるかに関するものであった。本来、これは国王の役割であり、王権の象徴的な行為であった。しかし、1099年、ローマ教皇ウルバヌス2世はこの慣習を非難し、この権限は教皇のみに属すると宣言した。また、聖職者は世俗の支配者に忠誠を誓うべきではないとも述べた[190]。1100年、亡命先から帰国したアンセルムスは、この決定に従うとヘンリーに伝えた[191]。ヘンリーは困難な立場に置かれた。この象徴的行為並びに忠誠の誓いは王権にとって重要であったが、他方で兄ロベール公との戦いにおいてアンセルムスの支持が必要であった[192]

アンセルムは教皇勅書の内容を厳格に遵守し、ヘンリーが将来的な妥協を示唆して説得しようとしても譲歩しなかった[193]。そして事態は悪化し、アンセルムスは再び亡命し、ヘンリーは彼の領地とその収益を没収した。アンセルムは破門を警告し、1105年7月、両者は最終的に妥協案を交渉し[194]、1107年にはロンドン協約を基に両社は合意を締結した[18][150][195][196]。この合意では、聖職者の世俗的権限と教会的権限を区別し、ヘンリーは聖職者への叙任権を放棄する一方で、彼らがイングランドの土地(en:temporalities)を保有するにあたり、王に忠誠を誓う慣習を維持することが取り決められた[197]。こうした対立にもかかわらず、両者は協力して1101年のロベール公のイングランド侵攻に対処し、1102年と1108年には大規模な教会改革会議を開催した[198]

アンセルムスの後任であるラルフ・デスキュール英語版の時代には、カンタベリー大司教とヨーク大司教の間の長年の対立が再燃した[199]。カンタベリーは伝統的に優位であり、ヨークの大司教がカンタベリー大司教に従うべきだと主張したが、ヨーク側は両者が独立した存在であるとしてこれを拒否した。ヘンリーはイングランドの教会制度を統一的に管理するためカンタベリーを支持したが、教皇はヨークの主張を支持した[199]。ヘンリーはヨーク大司教タースタン英語版と個人的な友好関係を持っており、また、この問題が教皇庁の裁判所へ持ち込まれることを避けたかった[199]。しかし、フランス王ルイ6世との対立で教皇の支援が必要であったため、1119年にランス公会議へのタースタンの出席を許可した。そこで彼はカンタベリーに対する従属の言及されることなく、教皇によって叙階された[200]。しかし、ヘンリーはこの行為がタースタンと以前に結んだ約束に反すると考え、彼をイングランドから追放したが、翌年、王と大司教の間で和解が成立した[201]

叙任権闘争が終結した後も、ヘンリーはイングランドとノルマンディーの司教・大司教の任命に重要な影響力を持ち続けた[202]。彼は王室の官僚を司教職に任命することが多く、歴史家マーティン・ブレット英語版 は「ヘンリーの官僚たちの中には、ほぼ確実に司教位(ミトラ)を手にすることができたものもいる」と述べている[203][nb 21]。ヘンリーの大法官や王妃の側近たちは、ダラムヘレフォードロンドンリンカンウィンチェスターソールズベリーの司教となった[205]。ヘンリーは、かつてのカンタベリー大司教を側近の中心とする統治体制から転換し、ソールズベリー司教ロジャー[nb 22]を筆頭として幅広い聖職者を側近とした[207]。これにより統治機構は強化され、王権は大評議会を通じて重要な政策を慎重に決定する体制が構築された[208]。しかし、1125年以降、ヘンリーは改革派の聖職者を多く含むより多様な人物を教会組織の高官として積極的に登用するようになり、これらの人々の影響は彼の死後に顕著になっていった[209]

個人的信仰と敬虔さ

編集
 
レディング大修道院英語版に残る参事会集会場の跡地

他の同時代の統治者と同様に、ヘンリーは教会への寄進を行い、複数の宗教共同体を庇護したが、当時の年代記作者たちは彼を特筆すべき敬虔な王とは評価していない[210]。彼の宗教観および信仰心は、生涯を通じて変化した可能性があり、特に晩年において霊的関心を深めたと考えられる[211]。そしてこの転換が生じた時期として、1120年に息子ウィリアム・アデリンを失ったこと、さらには1129年に娘の婚姻が崩壊の危機に瀕したことが、大きな契機となった可能性が指摘される[212][nb 23]

また、宗教改革の推進者としてヘンリーは教会内の改革派グループに対して多大な支援を行った[214]。特にクリュニー修道会を積極的に支持しており、その動機は知的関心によるものと考えられる[215]。彼はクリュニー修道院自体に寄進を行い、1120年以降はクリュニー修道会系のレディング大修道院英語版にも惜しみなく資金を提供した[215]。同修道院の建設は1121年に開始され、ヘンリーは豊かな土地と広範な特権を与え、これを自身の王朝の象徴とした[216]。さらに、聖職者の共同体をアウグスティノ会正則参事会員へと転換すること、癩病院の設立、女子修道院の拡充、サヴィニアック会(en:Congregation of Savigny)やティロン会(en:Tironensian Order)といったカリスマ派修道会の支援にも注力した[217]。また、ヘンリーは聖遺物の収集にも熱心であり、1118年にはビザンツ帝国の遺物を収集するためにコンスタンティノープルへ使節団を派遣し、その一部をレディング修道院へ寄贈した[218]

晩年の統治 (1107年–1135年)

編集

大陸およびウェールズの政治(1108–1114年)

編集

1108年以降、ノルマンディーはフランス王国アンジュー伯国英語版フランドルの脅威にさらされるようになった[219]。1108年、フランス王位を継いだルイ6世はフランス王権の再強化を図り[219]、ノルマンディーの統治者でもあるヘンリーに対し臣従の誓いを求めるとともに、ノルマンディー国境沿いの係争中の2つの城を中立的な城主の管理下に置くよう要求した[220]。ヘンリーはこれを拒否し、ルイは軍を動員して圧力をかけた[221]。両者は激しい議論の末に休戦に合意し、戦闘を交えずに撤退したが、根本的な対立は解決されなかった[221][nb 24]。1109年、アンジューではフルク5世が実権を握り、アンジュー伯の権威を再建し始めた[223]。彼はメーヌ伯国英語版を相続したが、ヘンリー王の封臣であることを認めず、代わりにルイ王と同盟を結んだ[224]。また、フランドル伯ロベール2世も一時的にこの同盟に加わったが、1111年に死去した[225]

 
ヘンリー王と対立したフランス王ルイ6世ドゥニエ硬貨

同じ1108年、ヘンリーは6歳の娘マティルダを神聖ローマ皇帝となるハインリヒ5世と婚約させた[226]。ヘンリーにとってこれは名誉ある縁組であり、ヘンリー5世にとっては、イタリア遠征の資金を得る手段となった。彼はイングランドとノルマンディーから6,666ポンドの持参金を受け取ることになっていたが[227][nb 25]、この資金の調達は困難を伴い、イングランドでは特別な「援助税(aid)」を課す必要があった[229]。マティルダは1110年にドイツ女王英語版として戴冠された[230]

フランスとアンジューの脅威に対抗するため、ヘンリーはノルマンディー国境を越えた支援諸侯のネットワークを拡大した[231]。不信感を持たれたノルマン貴族は逮捕または所領を没収され、その土地は近隣の有力者への賄賂として活用されたとされ、特にメーヌ伯領地域では特に顕著であった[232]。1110年頃、ヘンリーはロベール短袴公の息子ギヨーム・クリトンの逮捕を試みたが、彼の後見人エリー伯が素早く彼をフランドルへ避難させたため、捕らえることはできなかった[233]。この頃、ヘンリーは自らを「ノルマンディー公」と称するようになったと考えられている[234][nb 26]。1112年には、ヘンリーに対して再び反抗的な態度を取ったロベール・ド・ベレームが、フランス王国の使節としてヘンリーの宮廷に現れたが、即座に逮捕され投獄された[236]

1111年から1113年にかけて、フランスとアンジューでは反乱が相次いだ。ヘンリーはノルマンディーへ渡り、ルイ王に対する反乱側に付いた甥のシャンパーニュ伯ティボー2世を支援した[237]。ヘンリーはルイを外交的に孤立させるため、息子ウィリアム・アデリンをフルクの娘マティルダ・ダンジュー英語版と婚約させ、さらに庶子のマティルダ・フィッツロイブルターニュ公コナン3世に嫁がせ、アンジュー・ブルターニュとそれぞれ同盟を締結した[238]。こうしてヘンリー王側がアンジューとブルターニュの両方と同盟関係を築いたことで、ルイは譲歩を余儀なくされ、1113年3月、ジゾール近郊でヘンリーと会談し、和平協定を締結した。これにより、係争中の城砦はヘンリーのものとされ、メーヌ、ベレーム、ブルターニュにおけるヘンリーの宗主権が正式に認められた[239]

一方で、ウェールズの情勢は悪化していた。ヘンリーは1108年に南ウェールズで軍事作戦を実施し、王権を拡大するとともに、ペンブルック周辺をフランドル諸侯とともに植民地として開拓した[240]。しかし1114年には、現地のノルマン貴族が攻撃を受けるようになった。また同じ頃のウェールズ中部地方では、ポウィス侯オワイン・アプ・カドワガン英語版が人質としていた者の目を潰し、北ウェールズではグウィネド王英語版グリフィズ・アプ・キナン英語版チェスター伯の権力に対する脅威となっていた[241]。ヘンリーは同年、三方からウェールズへ軍を進めた。南方からはギルバート・フィッツリチャード英語版率いる軍勢が進軍し、北からはスコットランド王アレグザンダーが攻勢をかけ、ヘンリー自身もミッドウェールズへ進軍した[241]。これに対し、オワインとグリフィズは和平を申し出、ヘンリーは妥協的な政治決着を受け入れた[242]。その後、ヘンリーはウェールズ辺境地帯を自身の任命した人物で固め、国境地域の統制を強化した[243]

反乱(1115–1120年)

編集
 
オックスフォード造幣局で鋳造されたとされるヘンリー1世の時代のペニー銀貨英語版

息子に対する爵位継承の安定を図るため、ヘンリー1世はフランス王ルイ6世に対し、息子ウィリアム・アデリンがルイ王に対して忠誠を誓う代わりに、ウィリアムを正統なノルマンディー公として承認するよう説得を試みた[244]。1115年、ヘンリーはノルマンディーへ渡り、ノルマン貴族を集めて忠誠を誓わせるとともにルイとの交渉を進めた。交渉はほぼ成立し、ウィリアムの公位継承権を認める代わりに多額の金銭を支払うことで合意に達する寸前であった。しかし、ルイはフランドル伯ボードゥアンの支援を受け、ギヨーム・クリトンこそがノルマンディーの正統な後継者であると宣言した[245]

交渉が決裂したヘンリーは軍を率いてノルマンディーに戻り、ルイに攻撃されていたティボー2世を支援したことにより、両者間で戦争が勃発した[246] 。ヘンリーとルイは国境沿いの町を互いに襲撃し、1116年頃には戦闘がさらに拡大したと考えられる[246][nb 27]。フランス軍、フランドル軍、アンジュー軍がノルマンディーの田園地帯を略奪したことを受け、ヘンリーは防戦一方に追い込まれた[248][249][250][251]モンフォール=ラモーリー領主英語版アモーリー3世・ド・モンフォール英語版をはじめとする多くの貴族がヘンリーに反旗を翻し、彼の宮廷内部でも暗殺計画が企てられた[248]。1118年初頭、ヘンリーの妻マティルダが死去したが、ノルマンディー情勢は緊迫しており、ヘンリーはイングランドへ戻って葬儀に参列することができなかった[252]

ヘンリーは反乱貴族に対する軍事作戦を開始し、ティボーとの同盟をさらに強化した[253]。同年9月、フランドル伯ボードゥアンが戦闘で負傷し、その後死亡したことで、北東からの圧力は和らいだ[254]。ヘンリーはアランソン民衆の反乱を鎮圧しようとしたが、フルク率いるアンジュー軍に敗北した[255][150][249][250][256]。アランソンからの撤退を余儀なくされると、ヘンリーの状況は急速に悪化し、財政的にも厳しくなったことで、さらなる貴族の離反を招いた[257]。1119年初頭には、ブレトイユ伯ウスタシュとヘンリーの娘ジュリアナが貴族の反乱に加わる意向を示した[258]。戦闘を避けるため人質が交換されたが、交渉は決裂し、両陣営が捕虜に危害を加えるという残虐行為に及んだ[259]。ヘンリーはブレトイユ英語版を攻撃・制圧したが、この際、娘のジュリアナにクロスボウで殺害されかけるという事件が起きた[259][nb 28]。その後、ヘンリーはウスタシュとジュリアナが有するほぼすべてのノルマンディー内の領土を剥奪した[261]

1119年5月、ヘンリーはついにウィリアム・アデリンとフルクの娘マティルダの婚約をフルク伯に承認させることに成功し、フルクに多額の金銭を支払うことで、彼を自陣営に引き入れた。フルクはレヴァント十字軍遠征に向かい、メーヌ伯領をヘンリーの管理下に残したことで、ヘンリーは残る敵対勢力の掃討に集中することができるようになった[262]。同年夏、ヘンリーはノルマン・ヴェクサンへ進軍し、そこでルイ王率いるフランス軍と衝突、両軍間で戦闘英語版が勃発した[263]。この戦いでは、ヘンリーは偵察を行った後、下馬させた騎士を慎重に編成した歩兵戦列を構成させた[264]。ヘンリー軍とは対照的に、ルイ王は騎士を騎乗させたままイングランド軍に突撃させ、イングランド軍第一線の防衛を突破したが、第二線で混乱し、次第に包囲されていった[265]。やがてフランス軍は総崩れとなった[264]。混戦の最中、ヘンリーは敵兵より剣の一撃を受けたが、鎧のおかげで傷を負うことなく難を逃れた[266]。ルイ王とギヨーム・クリトンは戦場から離脱し、勝利を収めたヘンリーはルーアンへ凱旋した[267]

この戦いの後、戦争は次第に沈静化し、ルイはノルマンディーでの問題をローマ教皇カリストゥス2世が同年9月にランスで開催した評議会に持ち込んで解決を図った[268]。ノルマンディーの獲得および統治に関するフランス側の抗議を受けたヘンリー王は、ルーアン大司教ジョフロワ・ブリト英語版らの弁護を受けたもののその甲斐無く、ヘンリー側の主張はフランス支持派の圧力によって打ち負かされた[269]。しかし、ローマ教皇カリストゥス2世はルイ王への支持も明言せず、両者に和平を勧告するにとどまった[270]。その後、モンフォール・ド・アモーリーはヘンリー王と和解したが、ヘンリー王とギヨーム・クリトンとの間では妥協点を見出せなかった[271]。最終的に1120年6月、ヘンリーとルイは和平条約を締結し、ヘンリーに有利な条件が提示された。ウィリアム・アデリンはルイに臣従の誓いを立て、ルイはウィリアムのノルマンディー公位継承権を正式に認めることとなった[272]

後継者を巡る悲劇 1120年 – 1124年

編集
 
1120年11月25日にバルフルール港で沈没するホワイトシップ号英語版を描いた14世紀初頭の挿絵

1120年11月25日、フランス沿岸で発生したホワイトシップ号沈没事件によってイングランド王位継承問題は大混乱に陥った[273]。ヘンリー王自身は夕方早くにバルフルールの港を出発し、息子のウィリアム・アデリンや宮廷の若い貴族たちは、別の船「ホワイトシップ」で夜に出航することになっていた[274]。しかし、乗員も乗客も酔っており、港のすぐ外で船は水中の岩に衝突した[275][nb 29]。ヘンリー王の後継者たちを乗せたホワイトシップ号は沈没し、乗員約300人が死亡した。唯一の生存者はルーアンの肉屋であった[275]。ヘンリー王の宮廷は当初、ウィリアム王子の死を王に報告することを恐れていたという。ついに王子溺死の報告を受けたヘンリーは、深い悲しみに打ちひしがれた[277]

この惨事により、ヘンリーには嫡出子がいなくなり、王位に最も近しい男性王族はヘンリー王の甥たちとなった[278]。ヘンリーは新たな嫡出子をもうけるべく、アデライザ・オブ・ルーヴァンとの結婚を取り決め[250][279]、2人は1121年1月にウィンザー城で結婚した[280][nb 30]。アデライザは顔の整った高貴な出自であったことからヘンリーが彼女を後妻に選んだとみられる。一方のアデライザもヘンリーに好意を持ち、常に彼に随行した。これは彼女が王の子を妊娠する可能性を高めるためだったと考えられる[282]。ホワイトシップ号遭難事故はウェールズでの新たな紛争の原因にもなった。遭難事故にチェスター伯リチャード・ダヴランシュも巻き込まれていたためである。彼の溺死により、マレドゥッド・アプ・ブレズィン英語版による反乱が勃発したのである[283]。 ヘンリーは同年夏に北ウェールズへ軍を派遣し、彼自身も矢傷を負いながらも、王権の支配を再び強固なものとした[283]

ヘンリーとアンジュー伯フルク5世の同盟関係は、ヘンリーの息子ウィリアムがフルクの娘マティルダ・ダンジュー英語版と結婚することで成立していたが、崩壊し始めた[284]。レバントでの十字軍遠征から戻ったフルクは、ヘンリーに対してマティルダと彼女の持参金であるメーヌの領地や要塞を返還するよう要求したのである[284]。マティルダはアンジューに里帰りしたが、ヘンリーは持参金の土地は元々自分のものであるため、フルクの手に渡るべきではないと主張して返還を拒否した[285]。これに対し、フルク伯は娘のシビーユ・ダンジューをギヨーム・クリトンと結婚させ、彼にメーヌを与えた[286]。これにより、1123年にはアモーリー3世・ド・モンフォール英語版がフルクと同盟し、ノルマンディー・アンジューの国境で反乱を起こした[286]。彼は多くのノルマン貴族と共に戦い、その中にはヘンリーの旧盟友ロバート・ド・ボーモンの息子、ウォレラン・ド・ボーモン英語版もいたという[287][nb 31]

ヘンリーはグロスター伯ロバートラヌルフ・ル・メシン英語版をノルマンディーに派遣し、1123年末には自らも参戦した[289]。彼は反乱軍の城を包囲し、ノルマンディーで冬を越した[290]。1124年春、戦闘が再開され、ブルグテルルドの戦い英語版が勃発した。戦いはルーアン近郊で行われ、ベルネー城代ボルランが王軍を指揮した。彼は反乱軍がボーモン=ル=ロジェの拠点を離れ、ブロトンヌ橋英語版の森を通過するとの情報を得て、反乱軍が森を通過する際に待ち伏せ攻撃を仕掛けた。ウォレランはイングランド王軍に突撃を仕掛けたが、彼の騎士たちはオドの弓兵によって撃ち倒され、反乱軍はすぐに壊滅した[291]。結果、ウォレランは捕らえられたが、アモーリーは逃亡した[291]。ヘンリーは残りの反乱軍を鎮圧し、指導者の一部を失明させたが、これは当時、処刑よりも慈悲深い処罰と見なされていた[292]。また、ヘンリーは多額の金を支払い、ローマ教皇カリストゥス2世にギヨーム・クリトンとシビラの結婚を近親婚の理由で無効にするよう要請したという[293][nb 32]

後継者を求めて 1125年 - 1134年

編集

ヘンリーとアデライザの間には子供が生まれず[250][295]、その理由について様々な憶測が飛び交った。その結果、王朝の将来は危機に瀕しているように見えた[296][nb 33]。そこでヘンリーは甥たちの中から後継者を探し始めたと考えられている。彼は甥のブロワ伯スティーブンを候補と考えたかもしれず、裕福な相続人であるマティルド・ド・ブローニュとの結婚を手配したのはその準備であったのかもしれない[298]。彼の側近であったブロワ伯ティボー4世も、ヘンリーの後継者候補として好意的に見られていると感じていた可能性がある[299]。一方で、フランス王ルイ6世が推す候補であるギヨーム・クリトンはヘンリーに対抗する立場を取り続けており、後継者としては不適格とみなされていた[300]。さらに、ヘンリーは自らの庶子であるグロスター伯ロバートを後継者として考慮した可能性もあるが、イングランドの伝統と慣習では庶子の王位継承は容認されなかった[301]

1125年、ヘンリーの娘である神聖ローマ皇后マティルダの夫、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世が死去すると、ヘンリーの後継計画は変化した[302]。翌年、ヘンリー王は娘マティルダをイングランドに呼び戻し、自身が男子をもうけずに死んだ場合には、彼女を正当な後継者とすることを宣言したのである[303]。1126年のクリスマス、ウェストミンスター寺院に集められたアングロ・ノルマン人英語版貴族たちは、マティルダと彼女が将来産むであろう正当な後継者が王位を継承する旨を認める誓いを立てた[nb 34]。しかし、女性を後継者として指名するのは異例のことであり、宮廷内には依然としてマティルダに対する反対意見があった。フランス王ルイ6世も彼女の王位継承に激しく反対した[305]

1127年、新たな争いが勃発した。フランドル伯シャルル1世が暗殺され、彼には子供がいなかったことからフランドルで後継者問題が発生したのである[306]。結局、ルイ6世の支持を受けたギヨーム・クリトンがフランドルの新たな統治者に選ばれた[307]。これはノルマンディーに対する潜在的な脅威となり、ヘンリーはギヨーム伯のフランドルにおける対立勢力を支援する形で代理戦争を開始した[308]。また、ヘンリー王はフランス王とギヨーム伯の同盟を妨害するために1128年にフランスへ侵攻し、ルイ6世にウィリアムへの支援を打ち切らせることに成功した[309]。そして7月、ギヨーム伯が急死したことでヘンリー王の統治を脅かす主要な敵は消え、フランドルでの戦争は終結した[310]。これにより、ノルマンディーの反乱貴族は指導者を失い、イングランドとフランスとの間で和平が成立した。ヘンリーは1123年の反乱の際に捕らえていた残りの囚人を釈放し、その中には後に宮廷に復帰することとなるウスター伯ウォレラン英語版も含まれていた[311]

一方、ヘンリーはアンジュー伯フルク5世の長男ジョフロワに娘マティルダを嫁がせることで再び同盟を締結した[312][250][313]。2人は1127年に婚約し、翌年結婚した[314]。ヘンリー王はこの結婚において、ジョフロワに将来的なイングランド・ノルマンディーの継承権を与えるつもりだったのかは不明であり、また意図的に娘婿ジョフロワの立場を不確実なものにしていた可能性が高い。同様に、マティルダには持参金としてノルマンディーの複数の城が与えられていたが、マティルダ・ジョフロワ夫妻がそれらを実際にいつから所有・統治を開始するかに、明確な取り決めがなされていなかった。[315]。1129年、フルク伯はアンジューを去り、エルサレムへ向かった。この際、息子のジョフロワをアンジュー伯およびメーヌの統治者として宣言した[316]。しかし、ジョフロワとマティルダの結婚生活は上手くは行かなかった。2人は特にお互いを好んでいたわけではなく、さらに持参金として与えられた城の扱いが争点となり、結果としてマティルダは同年のうちにノルマンディーへ戻ってしまった[317]。ヘンリー王は、この別居の原因はジョフロワに責任があると考えていたようだが、最終的に1131年に2人は和解した[318]その後、2人の間には1133年にアンリ、1134年にジョフロワが誕生し、ヘンリーにとって大きな安堵となった[319]

王の死

編集
 
息子の死を嘆くヘンリー王を描いた14世紀の挿絵

ヘンリー、マティルダ、ジョフロワの関係は、ヘンリーの晩年にかけて次第に緊迫したものとなった。マティルダとジョフロワは、イングランド国内で十分な支持を得られていないのではないかと疑念を抱いていた。そして1135年、2人はヘンリー王に対し、彼が存命中にノルマンディーの王城をマティルダに引き渡し、さらにノルマンディーの貴族たちに直ちにマティルダへの忠誠を誓わせるよう求めた。これは、ヘンリーの死後に2人の立場をより強固なものとする狙いがあった[320]。しかし、ヘンリーは激怒してこの要求を拒否した。おそらく、ジョフロワがノルマンディーで権力を掌握しようとするのを警戒していたのだろう[321]。その後、ノルマンディー南部の貴族たちの間で新たな反乱が勃発し、ポンテュー伯英語版ギヨーム3世がその指導者となった。これに対し、ジョフロワとマティルダは反乱軍を支援して介入した[322]

ギヨーム伯の反乱を受けて、ヘンリーは秋の間にノルマンディー南部の国境を強化しながら軍事行動を続け、11月には狩猟のためにリヨン=ラ=フォレ英語版へ向かった。その時点ではまだ健康そうに見えた国王であったが[323]、当地で王は体調を崩した。年代記作家ヘンリー・オブ・ハンティングドンによれば、ヘンリーは医師の忠告に反してヤツメウナギを過剰に食べたという[324]。彼の容体は1週間のうちにみるみる悪化していった[325]。病状が回復不能と判断されたヘンリー王は告解を行い、ルーアン大司教ユーグ・ダミアン英語版を召喚した。ヘンリー王の元に向かうユーグ大司教にはグラスター伯ロバートや宮廷の他の有力者たちも同行した[326] 。また、ヘンリーは当時の監修に従い、未払いの負債の清算や没収処分を受けていた者たちへの赦免の準備が進められた[327]。1135年12月1日、ヘンリー王は崩御した。王の遺体は貴族たちに伴われてルーアンへ運ばれ、防腐処理が施された。彼の内臓はルーアン近郊のノートル=ダム・デュ・プレ修道院英語版に埋葬され、保存処理を施された遺体はイングランドへ送られた。そして、レディング修道院英語版に埋葬された[328]

ヘンリーの努力にもかかわらず、王位継承はスムーズに進まなかった。国王の死の知らせが広まり始めた際、ジョフロワ伯とマティルダ妃はアンジューに留まりイングランド軍に対する反乱軍を支援していた。その軍中には、グロスター伯ロバートをはじめとするマティルダ支持者が多数含まれていた[15]。しかし、多くのノルマンディーの貴族たちは、亡きヘンリー王の遺体が正式に埋葬されるまでノルマンディーを離れないという誓いを立てていたため、イングランドへ戻ることができなかった[329]。その間、ノルマン貴族たちはブロワ伯ティボー4世をイングランド王に擁立する案について議論を交わしていた[330]。そんな中、ティボー伯の弟エティエンヌがすばやくブローニュからイングランドへ渡り、自らの軍勢を率いて王位獲得を目指す行動を起こした[331]。そこで、ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドから「ヘンリー王が死の床で貴族たちをマティルダへの忠誠の誓いから解放した」という疑わしい証言を得て[332]、また兄アンリ・ド・ブロワ英語版の助けを借りることでイングランドの王権の掌握に成功し、12月22日にイングランド王スティーブンとして戴冠した[333]。しかし、マティルダはイングランドとノルマンディーの継承を諦めなかった。彼女はまずローマ教皇に対し、スティーヴンの戴冠を認めた決定に異議を申し立てた。 その後、彼女はイングランドへ侵攻し、1135年から1153年にかけて続く長期の内戦、いわゆる無政府時代を引き起こした[334]

歴史記述

編集
 
ヘンリーの治世に関する年代記の一つであるウェールズのBrut y Tywysogion英語版の一部

多くの歴史家はヘンリー王についてさまざまな資料を用いて研究を行っている。それには、年代記作家の記録、初期のパイプ・ロールなどの文書資料、そして現存する建築物が含まれる[335]。ヘンリーの生涯を記した主要な3人の年代記作家は、マームズベリのウィリアムオルデリック・ヴィターリス英語版、そしてヘンリー・オブ・ハンティングトンである。しかし、彼らはそれぞれ、社会的・道徳的な評論を豊富に織り交ぜながら記述しており、他の流行していた文学作品から様々な修辞技法や定型的な出来事を借用している[336]。その他の年代記作家としては、エドマー英語版聖歌隊長ヒュー 英語版シュジェール修道士英語版、そしてウェールズのウェールズ諸侯たちの年代記英語版の作者らが挙げられる[337]。また、この時代の王室文書はすべてが現存しているわけではないが、いくつかの王令、勅許状、令状、書簡、さらには初期の財務記録が残されている[338]。しかし、これらの中には後に偽造であることが判明したものもあり、また、一部の文書は後の時代に改ざんされた形跡があることが確認されている[339]

後期中世の歴史家たち英語版は、ヘンリーの教育に関する特定の年代記作家の記述に注目し、彼に「ボークレール(Beauclerc、碩学)」の称号を与えた[340]。このテーマは、ヴィクトリア朝およびエドワード朝の歴史家であるフランシス・ポールグレイブ英語版ヘンリー・ウィリアム・カーリス・デイヴィス英語版による分析にも反映されている[341]。しかし、歴史家チャールズ・デイヴィッド英語版は1929年にこの主張を退け、ヘンリーの教育に関する極端な主張には根拠がないことを示した[342]。ヘンリーに関する近代的な歴史研究は、1960年代初頭にリチャード・サザン英語版の研究から始まり、その後20世紀を通じて、イングランドでの統治に関する多様なテーマに関する大規模な研究が行われた。一方で、ノルマンディー統治に関する研究は比較的少なかった[343]。ヘンリーに関する主要な近代的伝記は、C・ウォーレン・ホリスター英語版による2001年の死後出版された著作と、ジュディス・グリーン英語版による2006年の研究の2冊のみである[344]

歴史家によるヘンリーの人物像の解釈は時代とともに変化している。初期の歴史家であるオースティン・プール英語版やリチャード・サザンは、ヘンリーを冷酷で厳格な支配者と見なしていた[345]。一方、近年の歴史家であるホリスターやグリーンは、彼の司法制度の施行をより共感的に評価しており、当時の基準と比較すれば公正であったと見なしている。しかし、グリーン自身もヘンリーを「多くの点で非常に不快な人物」と評しており、アラン・クーパーは、当時の年代記作家の多くが恐れのあまりヘンリーに対する批判を控えていた可能性を指摘している[346]。また、歴史家の間では、ヘンリーの行政改革が本当にホリスターやジョン・ボールドウィンが「行政的王権(administrative kingship)」と呼ぶ体系的なものだったのか、それとも依然として伝統的な統治観に基づいていたのかについて議論が続いている[347]

ヘンリーの埋葬地であるレディング修道院英語版には、現在記念の十字架と銘板が設置されている[348]。しかし、レディング修道院は16世紀の修道院解散の際に徐々に取り壊された[349]。墓の正確な場所は不明だが、最も可能性の高い場所は現在のレディング中心部にある旧修道院の聖歌隊席の跡地と考えられている[349]。2015年3月、イングリッシュ・ヘリテッジと、リチャード3世の発掘とリチャード3世の再埋葬事業(en:exhumation of Richard III)を支援したフィリッパ・ラングレーの協力のもと、ヘンリー1世の遺骨を探す計画が発表された[350]

家族と子女

編集

ヘンリー王には多数の子供達がいた。以下に嫡出子、非嫡出子、男子、女子に分けて列挙する。

嫡出子

編集

ヘンリー王とマティルダ王妃の間には2人の嫡出子がいた。2人に加えて[92]、リチャードという名の早死にした息子がいた可能性もある[103]。2人目の王妃アデライザとの間に嫡出子はいない。

非嫡出子

編集

ヘンリー1世は様々な愛人との間に多数の落とし子を作った[nb 35]

男子

編集

女子

編集

家系図

編集

Template:England's Norman rulers family tree

関連項目

編集

注釈

編集
  1. ^ ヘンリーの生年の特定は、年代記作家の記録や両親であるウィリアムとマティルダの移動経路を比較することに基づいている。しかし、これらの情報はヘンリーが妊娠・誕生し得る期間を限られた範囲でしか示していない。歴史家ウォーレン・ホリスター英語版は1068年の夏説を支持し、ジュディス・グリーン英語版は年末説を支持しているが、1069年の初めに生まれた可能性もわずかに残されている。セルビーが出生地とされるのは、地元の伝承に基づいている。[1]
  2. ^ 当時の年代記作家のオルデリック・ヴィターリス英語版は、ヘンリーと兄ロベール、ウィリアムがレーグルという町で口論を繰り広げたという逸話を伝えている。しかし、現代の歴史家であるジュディス・グリーンやウォーレン・ホリスターは、この話の信憑性を疑問視している[9]
  3. ^ 歴史家ウォーレン・ホリスターは、ヘンリーが聖職者となる運命にあったとは考えていない。一方で、ジュディス・グリーンは、その意図がなかったという確信を持てないと述べている[10]
  4. ^ 年代記作家たちは、この金額を2,000ポンドまたは5,000ポンドと記しているが、後世の歴史家の間では5,000ポンド説がより一般的に唱えられている[21]
  5. ^ ヘンリーが受け取っていた相続遺産5,000ポンドは約150万枚の銀貨に相当し、ノルマンディーを統治する兄ロベールと対立した場合、公国からこれほどの大金を持ち出すことは困難であったと考えられる[25]
  6. ^ ノルマンディー西部は本来、亡きリシャールのために用意されていた土地であり、首都ルーアンからは遠く離れた地域であった[28]
  7. ^ 包囲の期間については、異なる記録が存在し、15日間から6週間の間で意見が分かれている。ウォーレン・ホリスターは6週間とし、ジュディス・グリーンは15日間としている[58]
  8. ^ ロベール公の軍勢がウィリアム王と合流するのを妨げていた可能性がある[69]
  9. ^ デイヴィッド・カーペンターはウィリアム・ルーファスの死を「ほぼ確実に事故」と見なし、ウォーレン・ホリスターも「最も可能性の高い説明は狩猟事故である」と考えている。ジュディス・グリーンも「総合的に見て事故である可能性が最も高い」と述べている。一方で、エマ・メイソンはより疑念を抱いており、ウィリアム・ルーファスがヘンリーまたはフランス王の代理人によって殺害された可能性を支持している。少数派の意見として、オースティン・プールはヘンリーを「簒奪者」と見なし、20世紀初頭の執筆で「この事実は不穏である」と述べ、特にティレルの逃亡、ヘンリーの動機、および兄への明らかな無関心が「陰謀を示唆しているように見える」と主張している[76]
  10. ^ 年代記作者のエドメール、マームズベリのウィリアム、オルデリック・ヴィターリスは夫妻が親密であったと記しており、エドメールは2人が恋愛関係にあったと述べている[96]
  11. ^ 結婚を承認したアンセルムスに対して批判の声が集まっていた[100]
  12. ^ 次男がいたという記録を残しているのはen:Gervase of Canterburyという名の年代記編者だけである[103]
  13. ^ この社会階層では両性愛も一般的であったが、ヘンリーが男性との関係を有していたという証拠はない[106]
  14. ^ 当時の年代記の多くはこの金額を3,000マルク(約2,000ポンド)と記しているが、オルデルリック・ヴィターリス英語版 は3,000ポンドと記録している[120]
  15. ^ 当時の年代記は戦闘が行われた日付を9月27日、28日、29日のいずれかと伝えている。現代の歴史家は28日説を採ることが多いが、ジュディス・グリーン英語版はそれには慎重な姿勢を示している[144]
  16. ^ ジェフリー・オブ・モンマスは『ブリタニア列王史』の中で、ヘンリーを「正義の獅子」と称している。これは、同書に登場するマーリンの予言の一節である。ヘンリーの名前自体は文書内に明記されていないが、多くの歴史家はこの記述が彼を指していると考えている。ただし、この比喩の解釈には議論があり、例えばジュディス・グリーン英語版はこの記述を肯定的に捉える一方、アラン・クーパー英語版はより慎重な立場をとり、中世においてライオンは力強さだけでなく残虐さの象徴でもあり、該当部分の文脈もヘンリーにとって必ずしも好意的なものではないと指摘している[173]
  17. ^ 1124年、ヘンリーの兵士たちが劣悪な銀貨で給与を支払われたと報告する事件が起き、彼はソールズベリーのロジャーに調査を命じ、偽造に関与した造幣工は右手と性器を切り落とすよう命じた。この刑はソールズベリーでロジャー司教自身によって執行され、当時の年代記作者たちはヘンリーの厳しい措置を称賛した[180]
  18. ^ 歴史家デイヴィッド・クラウチ(David Crouch)は、ヘンリーの主要な顧問や官僚たちは後に自らが王の名のもとに行った行為を悔いることが多かったと指摘し、「ヘンリー王の宮廷での生活は、その構成員の良心に重くのしかかった」と述べている[184]
  19. ^ ヘンリー1世は国王不在でも統治を行う組織の確立、および王が家政組織を率いてイングランド・ノルマンディー両国を巡回・統治して全体の統一を図る方法を取り、在地統治組織と君主の家政組織の分離が進んだ。前者は最高法官・イクスチェッカー・常任裁判官が、後者は宮廷財務室・尚書部・宝蔵室が担当した。青山、P223 - P224、君塚、P51。
  20. ^ アンセルムスは、国王と大司教の関係を、「政府とは、二頭の雄牛(王と大司教)によって引かれる鋤のようなものだ」と比喩しており、国王は世俗的権力・大司教は宗教的権威によって統治を遂行すると述べている[188]
  21. ^ 修道士出身の司教よりも在俗聖職者を司教にすることが多く、特に、自らの詔書局(大抵は宮廷礼拝堂付き司祭ことチャプレン)で働いた聖職者達をノルマンディーやイングランドの司教に転出させ、その働きに報いた[204]
  22. ^ 彼は聖職者でありながら妻帯していた[206]
  23. ^ ヘンリーの晩年における宗教に対する個人的態度を評価することは困難である。歴史学者リチャード・サザンは、1120年および1129年に二度の変化があったと主張する一方で、マーティン・ブレットは1120年を決定的な転機とする説を否定し、1129年をより重要な時点として位置づけている。ジュディス・グリーンはより慎重な立場をとり、後期の年代記作者たちが懺悔や告解といったテーマに重点を置く傾向にあったことが、ヘンリーの宗教観の変化を誇張して伝える要因になった可能性を指摘している。また、ヘンリー・マイヤー=ハーティングも中年期における宗教観の変化を裏付ける証拠の確実性に疑義を呈しつつ、むしろヘンリーの初期の敬虔さに注目し、従来の評価よりも宗教的傾向が強かった可能性を示唆している[213]
  24. ^ 年代記作者のシュジェールは、この出来事がヘンリーにとって屈辱的であったと示唆している。なぜなら、彼は戦闘を回避したからである。しかし、それは軍事的に見れば理にかなった判断であった[222]
  25. ^ 持参金は銀10,000マルクであり、これは6,666ポンドに相当した[228]
  26. ^ この称号はラテン語では dux Normannorumノルマン人の公爵の意味)と表記されていた[235]
  27. ^ この戦役の時期については不確定である。ジュディス・グリーンは1116年と明確に特定しているが、ウォーレン・ホリスターはより慎重な立場をとり、1116年から1118年の間であった可能性があるとしている[247]
  28. ^ 1119年2月、かつてヘンリー王の同盟者であったウスタシュ・ジュリアナ夫妻は、イヴリー=ラ=バタイユ城の領有が認められなければ反乱を起こすとヘンリーに対して脅しをかけた[258]。ヘンリーはウスタシュにこの城を与えることを約束し、その誠意を示すために人質を交換した。ウスタシュ・ジュリアナ夫妻は彼らの娘たちを、ヘンリー王は城の守備隊長の息子を、それぞれ人質として交換した[258]。歴史家オルデリック・ヴィターリスによれば、ウスタシュはこの後、守備隊長の息子を盲目にするという暴挙に出た。これを受けてヘンリーは、自らの孫娘である娘たちを盲目にし、さらに身体を危害を加えることを許可した[259]。その後、ウスタシュは軍を動員してヘンリーの攻撃からブレトイユを防衛せんと試みた。しかし、ヘンリーはブレトイユを制圧し、ジュリアナはヘンリーをクロスボウで殺害しようとしたものの失敗し、逃亡したのであった[260]
  29. ^ この水中の岩は、おそらくキユイユブフ岩英語版だった[276]
  30. ^ ヘンリーはホワイトシップ遭難事故から短期間で再婚したため、事故以前から再婚を計画していた可能性も示唆されている[281]
  31. ^ ウォレランがヘンリーに反抗した理由は不明である。彼はギヨーム・クリトンがノルマンディー公国の正当な継承者と考え、ヘンリーの下では利益を得られないと考えた可能性がある[288]
  32. ^ 当時の中世教会法では、七親等以内の結婚を禁じていた。実際には上流階級のほとんどがこの範囲内で血縁関係にあったが、必要に応じてこの規則が適用され、婚姻の無効が宣告されることがあった[294]
  33. ^ ヘンリーに子供が生まれなかった理由についての噂がどのようなものだったのか、また問題がヘンリーとアデライザのどちらにあったのかは正確には不明である[297]
  34. ^ この誓いに関する中世の年代記の記述は細部が異なっている。マームズベリのウィリアムは、出席者がマティルダを父系・母系ともに王家の血を引く正統な後継者として認めたと述べている一方、ウスターのジョン英語版は、マティルダの継承は合法的な男子後継者が生まれることを条件としていたと記録している。アングロサクソン年代記は、イングランドとノルマンディーの両方の継承に関する誓いがなされたと記述している。一方で、オルデリック・ヴィターリス英語版ヘンリー・オブ・ハンティングドンは、この誓いの儀式について記録を残していない。一部の年代記の記述は、1135年にスティーヴンが王位を奪ったことや、その後の無政府時代の出来事によって影響を受けた可能性がある[304]
  35. ^ 1940年代に歴史家ジェフリー・ホワイト英語版が行った研究により、ヘンリーの庶子の詳細な一覧が作成された。この研究は、のちの歴史家キャスリーン・トンプソン英語版による最新の学術研究の基礎となっている[351]
  36. ^ 伝統的にヘンリーの母親はNest ferch Rhysとみなされていたが、キャスリーンの研究によればこの説は疑わしいとされている[355]
  37. ^ ホワイトはシビーユの母をシビル・コーベットであると主張しているが、キャスリーンの近年の研究によればその説は疑わしいとされている[358]
  38. ^ ロヘーズはヘンリー王の娘である可能性もあるものの、それ以上にHerbert fitz Herbertの娘である可能性が高いと考えられている[358]
  39. ^ ノルマンディー公ロベールの娘の可能性の方がより高いと考えられている[364]

脚注

編集
  1. ^ a b Hollister 2003, pp. 30–31; Green 2009, p. 20
  2. ^ Newman 1988, pp. 21–22; Carpenter 2004, pp. 125–126
  3. ^ Hallam & Everard 2001, pp. 62–64, 114–118
  4. ^ Hollister 2003, pp. 32, 40
  5. ^ Carpenter 2004, p. 128
  6. ^ Green 2009, p. 21
  7. ^ Newman 1988, p. 54
  8. ^ Hollister 2003, p. 35; Green 2009, p. 21; Thompson 2007, pp. 16–17
  9. ^ Green 2009, p. 21; Hollister 2003, pp. 35–36
  10. ^ a b Hollister 2003, pp. 36–37; Green 2009, p. 22
  11. ^ Hollister 2003, pp. 33–34
  12. ^ Hollister 2003, p. 37; Green 2009, p. 23
  13. ^ Hollister 2003, p. 37
  14. ^ Hollister 2003, pp. 37–38
  15. ^ a b c Barlow 1999, p. 162
  16. ^ Hollister 2003, p. 38
  17. ^ a b Hollister 2003, pp. 38–39
  18. ^ a b c d e 松村、P322。
  19. ^ 森、P28。朝治、P21、君塚、P45。
  20. ^ Hollister 2003, pp. 39–40, 46
  21. ^ Hollister 2003, p. 39; Green 2009, p. 25
  22. ^ Hollister 2003, p. 39
  23. ^ a b Hollister 2003, p. 48
  24. ^ Hollister 2003, pp. 48–49
  25. ^ Thompson 2007, p. 17
  26. ^ Hollister 2003, pp. 40, 47
  27. ^ a b Hollister 2003, p. 49
  28. ^ Green 2009, p. 28
  29. ^ Hollister 2003, pp. 51–53; Thompson 2007, p. 19
  30. ^ Hollister 2003, p. 53
  31. ^ Hollister 2003, p. 50
  32. ^ Hollister 2003, pp. 56–58, 61
  33. ^ Hollister 2003, pp. 57–59
  34. ^ Hollister 2003, p. 56
  35. ^ Hollister 2003, p. 54
  36. ^ Green 2009, p. 29
  37. ^ Hollister 2003, p. 61
  38. ^ Hollister 2003, p. 61
  39. ^ Hollister 2003, p. 65
  40. ^ Hollister 2003, pp. 65–66
  41. ^ Hollister 2003, pp. 66–68
  42. ^ Hollister 2003, p. 68
  43. ^ Hollister 2003, pp. 6–69
  44. ^ Hollister 2003, p. 69
  45. ^ Hollister 2003, p. 70
  46. ^ a b Hollister 2003, p. 71
  47. ^ a b Hollister 2003, p. 72
  48. ^ Hollister 2003, p. 73
  49. ^ Hollister 2003, pp. 74–76
  50. ^ Hollister 2003, p. 76
  51. ^ a b Hollister 2003, pp. 76–77
  52. ^ Hollister 2003, p. 77
  53. ^ Hollister 2003, pp. 78–79
  54. ^ Hollister 2003, p. 79
  55. ^ Hollister 2003, p. 80
  56. ^ Hollister 2003, pp. 80–81
  57. ^ Hollister 2003, pp. 81–82
  58. ^ a b Hollister 2003, p. 82; Green 2009, p. 32
  59. ^ Hollister 2003, pp. 82–83
  60. ^ Hollister 2003, p. 82
  61. ^ Hollister 2003, p. 85
  62. ^ Hollister 2003, pp. 85–86
  63. ^ Hollister 2003, pp. 86–88
  64. ^ Green 2009, p. 33; Hollister 2003, p. 89
  65. ^ Hollister 2003, p. 89
  66. ^ Hollister 2003, pp. 90–91
  67. ^ Hollister 2003, p. 96
  68. ^ Hollister 2003, pp. 96–97
  69. ^ a b Green 2009, p. 35
  70. ^ Hollister 2003, p. 99
  71. ^ Green 2009, p. 36
  72. ^ Hollister 2003, pp. 98–101; Green 2009, pp. 36–37
  73. ^ Hollister 2003, pp. 102–103
  74. ^ a b Hollister 2003, p. 103
  75. ^ Hollister 2003, pp. 103–104; Carpenter 2004, p. 134; Green pp. 39–41.
  76. ^ Carpenter 2004, p. 134; Hollister 2003, p. 104; Mason 2008, pp. 228–231; Green 2009, p. 41; Poole 1993, pp. 113–114
  77. ^ Hollister 2003, pp. 103–105
  78. ^ Hollister 2003, p. 104
  79. ^ Hollister 2003, p. 105
  80. ^ Hollister 2003, pp. 104–105; Green 2009, p. 43
  81. ^ Hollister 2003, pp. 104–105
  82. ^ 森、P28 - P29、青山、P220 - P221、君塚、P46 - P49。
  83. ^ Holister, p.106.
  84. ^ フレデリック・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、14頁。 
  85. ^ Hollister 2003, p. 19; Green 2009, p. 45
  86. ^ Green 2009, pp. 45–50
  87. ^ Hollister 2003, pp. 110–112
  88. ^ a b Hollister 2003, p. 116
  89. ^ Hollister 2003, pp. 116–117
  90. ^ Hollister 2003, p. 117
  91. ^ Green 2009, pp. 51–52
  92. ^ a b Hollister 2003, p. 130
  93. ^ Hollister 2003, p. 43; Thompson 2003, p. 134; Green 2009, p. 26
  94. ^ Thompson 2007, p. 24; Huneycutt 2003, p. 27
  95. ^ Hollister 2003, pp. 126–127; Green 2009, p. 58
  96. ^ Hollister 2003, p. 127
  97. ^ Hollister 2003, pp. 126–127
  98. ^ Hollister 2003, pp. 127–128; Thompson 2003, p. 137
  99. ^ a b c Hollister 2003, pp. 128–129
  100. ^ Green 2009, p. 55
  101. ^ Hollister 2003, p. 130; Thompson 2003, p. 137
  102. ^ Hollister 2003, p. 130; Green 2009, p. 75
  103. ^ a b Green 2009, p. 75
  104. ^ a b Thompson 2003, p. 137
  105. ^ Hollister 2003, p. 43; Green 2009, pp. 26–27, 307–309
  106. ^ a b Hollister 2003, p. 45; Thompson 2003, p. 135
  107. ^ Thompson 2003, p. 135
  108. ^ Thompson 2003, pp. 130–133
  109. ^ Hollister 2003, pp. 132–133; Green 2009, p. 61
  110. ^ Hollister 2003, pp. 133–134
  111. ^ Hollister 2003, pp. 134–135
  112. ^ Hollister 2003, pp. 135–136
  113. ^ Hollister 2003, p. 125
  114. ^ Hollister 2003, p. 137; Green 2009, p. 63
  115. ^ Hollister 2003, p. 137
  116. ^ Hollister 2003, pp. 137–138
  117. ^ Hollister 2003, p. 138
  118. ^ a b Hollister 2003, pp. 139–140
  119. ^ Hollister 2003, pp. 142–143
  120. ^ Green 2009, p. 64
  121. ^ Hollister 2003, p. 145
  122. ^ Hollister 2003, p. 143
  123. ^ Hollister 2003, pp. 143–144
  124. ^ Hollister 2003, p. 157
  125. ^ Hollister 2003, pp. 157–158
  126. ^ Hollister 2003, pp. 158–162
  127. ^ Hollister 2003, pp. 164–165
  128. ^ Green 2009, pp. 74–77
  129. ^ Hollister 2003, pp. 178–179
  130. ^ Hollister 2003, pp. 182–183
  131. ^ Hollister 2003, pp. 183–184
  132. ^ Hollister 2003, p. 184; Green 2009, p. 78
  133. ^ Green 2009, pp. 80–81
  134. ^ a b Hollister 2003, p. 185
  135. ^ Hollister 2003, pp. 184–185; Green 2009, p. 82
  136. ^ Hollister 2003, p. 186
  137. ^ a b Hollister 2003, p. 188
  138. ^ Hollister 2003, pp. 188–189
  139. ^ Hollister 2003, pp. 189–190
  140. ^ Hollister 2003, p. 190; Green 2009, p. 85
  141. ^ Hollister 2003, p. 198; Green 2009, pp. 88–89
  142. ^ a b Hollister 2003, p. 199
  143. ^ Hollister 2003, pp. 199–200
  144. ^ Green 2009, p. 93; Hollister 2003, pp. 199–200
  145. ^ Hollister 2003, pp. 199–201
  146. ^ a b Hollister 2003, p. 201
  147. ^ Hollister 2003, pp. 204–207
  148. ^ Hollister 2003, p. 207
  149. ^ Hollister 2003, p. 205
  150. ^ a b c 青山、P221。
  151. ^ 松村、P642、朝治、P23 - P25、P199 - P200、君塚、P49 - P50。
  152. ^ Hollister 2003, p. 206
  153. ^ Hollister 2003, pp. 208–209
  154. ^ Green 2009, p. 96; Green 2003, p. 64
  155. ^ Green 2009, pp. 224–225
  156. ^ Green 2009, pp. 226–227; Hollister 2003, p. 126
  157. ^ Green 2009, p. 226; Davies 1990, pp. 11–12, 48–49
  158. ^ Green 2009, pp. 98, 105
  159. ^ Green 2009, p. 228
  160. ^ Green 2009, pp. 232–233
  161. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 47–48; Green 2009, p. 231
  162. ^ Green 2009, pp. 232–233; Crouch 1986, p. 17
  163. ^ Green 2009, p. 314; Hollister 2003, pp. 332, 334
  164. ^ Hollister 2003, pp. 329, 324–347
  165. ^ Green 2009, pp. 285–286; Mayr-Harting 2011, p. 69
  166. ^ Green 2009, pp. 285–286
  167. ^ Green 2009, pp. 286–287
  168. ^ Chibnall 1992, pp. 86–89; Prestwich 1992, pp. 102–103, 118
  169. ^ Green 2009, pp. 289–290
  170. ^ Green 2009, pp. 294–295, 304–305
  171. ^ a b Hollister 2003, pp. 330–331
  172. ^ Hollister 2003, p. 350
  173. ^ Green 2009, p. 239; Cooper 2001, pp. 47–51
  174. ^ Hollister 2003, pp. 351, 356
  175. ^ Hollister 2003, pp. 356–357
  176. ^ Hollister 2003, pp. 358–359; Green 2009, p. 319; Newman 1988, p. 24
  177. ^ Hollister 2003, p. 358
  178. ^ Hollister 2003, p. 356
  179. ^ Hollister 2003, p. 354
  180. ^ Green 2009, pp. 188–189
  181. ^ Haskins 1918, pp. 86, 93, 105–106
  182. ^ Newman 1988, p. 20
  183. ^ Green 2009, pp. 242–243
  184. ^ Crouch 1986, p. 3
  185. ^ 青山、P224 - P225、君塚、P51 - P52。
  186. ^ Vaughn 2007, p. 134
  187. ^ Green 2009, p. 255
  188. ^ Vaughn 2007, p. 135
  189. ^ Green 2009, p. 273
  190. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 51–53
  191. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 52–53
  192. ^ Mayr-Harting 2011, p. 53; Green 2009, p. 53
  193. ^ Mayr-Harting 2011, p. 53; Vaughn 2007, p. 142
  194. ^ Mayr-Harting 2011, p. 53; Vaughn 2007, p. 142; Green 2009, pp. 84–88; Hollister 2003, p. 196
  195. ^ 森、P30。
  196. ^ 青山、P222 - P223、山代、P80 - P81、朝治、P23、君塚、P49。
  197. ^ Hollister 2003, p. 196
  198. ^ Vaughn 2007, pp. 139–140, 144
  199. ^ a b c Mayr-Harting 2011, pp. 58–59
  200. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 61–62
  201. ^ Mayr-Harting 2011, p. 62; Hollister 2003, pp. 272–273
  202. ^ Green 2009, pp. 262–265
  203. ^ Brett 1975, p. 106
  204. ^ 山代、P5、P106 - P110。
  205. ^ Brett 1975, pp. 106–107
  206. ^ 山代、P5 - P6、P88 - P89、P166。
  207. ^ Vaughn 2007, p. 148
  208. ^ Hollister 2003, pp. 371, 379; Brett 1975, pp. 110–111
  209. ^ Brett 1975, pp. 111–112
  210. ^ Green 2009, p. 14
  211. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 44–45; Brett 1975, p. 112
  212. ^ Brett 1975, p. 112
  213. ^ Mayr-Harting 2011, pp. 46; Southern 1962, pp. 155, 163, cited in Brett 1975, p. 112; Green 2009, p. 282
  214. ^ Green 2009, pp. 277–280
  215. ^ a b Green 2009, p. 278
  216. ^ Hollister 2003, pp. 435–438
  217. ^ Green 2009, pp. 278–280
  218. ^ Green 2009, p. 14; Bethell 1971, p. 69
  219. ^ a b Hollister 2003, p. 221
  220. ^ Hallam & Everard 2001, p. 153; Hollister 2003, p. 223
  221. ^ a b Hollister 2003, p. 223
  222. ^ Green 2009, p. 120
  223. ^ Hollister 2003, pp. 221, 224; Hallam & Everard 2001, p. 67
  224. ^ Hollister 2003, p. 224
  225. ^ Hollister 2003, pp. 224–225
  226. ^ Hollister 2003, p. 216
  227. ^ Hollister 2003, pp. 216–217; Green 2009, p. 118
  228. ^ Green 2009, p. 118
  229. ^ Hollister 2003, p. 217
  230. ^ Hollister 2003, p. 218
  231. ^ Hollister 2003, p. 225
  232. ^ Hollister 2003, pp. 225, 228; Green 2009, p. 121
  233. ^ Hollister 2003, pp. 227–228
  234. ^ Green 2003, p. 65
  235. ^ Green 2003, p. 645
  236. ^ Hollister 2003, pp. 226–227
  237. ^ Green 2009, p. 123; Hollister 2003, p. 229
  238. ^ Hollister 2003, p. 230
  239. ^ Hollister 2003, pp. 231–232
  240. ^ Carpenter 2004, pp. 38, 140
  241. ^ a b Green 2009, p. 132
  242. ^ Green 2009, pp. 132–133
  243. ^ Green 2009, p. 133
  244. ^ Hollister 2003, p. 238
  245. ^ Hollister 2003, pp. 239–240
  246. ^ a b Hollister 2003, p. 246; Green 2009, p. 135
  247. ^ Hollister 2003, p. 246; Green 2009, pp. 135, 138
  248. ^ a b Hollister 2003, pp. 246–248; Green 2009, pp. 135, 143
  249. ^ a b ルゴエレル、P29。
  250. ^ a b c d e 君塚、P53 - P56。
  251. ^ 朝治、P25 - P26。
  252. ^ Green 2009, pp. 139–140; Hollister 2003, p. 247
  253. ^ Hollister 2003, pp. 250–251
  254. ^ Hollister 2003, p. 251
  255. ^ Hollister 2003, p. 252
  256. ^ 朝治、P26 - P27。
  257. ^ Hollister 2003, p. 253; Green 2009, pp. 143, 146
  258. ^ a b c Hollister 2003, p. 253
  259. ^ a b c Hollister 2003, pp. 253–254
  260. ^ Hollister 2003, p. 254
  261. ^ Hollister 2003, pp. 254–255
  262. ^ Hollister 2003, p. 261; Green 2009, p. 149
  263. ^ Hollister 2003, pp. 263–264
  264. ^ a b Hollister 2003, p. 264
  265. ^ Hollister 2003, p. 264; Green 2009, p. 152
  266. ^ Hollister 2003, pp. 264–265
  267. ^ Hollister 2003, p. 265
  268. ^ Hollister 2003, pp. 265–266; Green 2009, pp. 153–154
  269. ^ Hollister 2003, p. 267; Green 2009, p. 157
  270. ^ Hollister 2003, pp. 267–268
  271. ^ Hollister 2003, pp. 268–269
  272. ^ Hollister 2003, p. 274
  273. ^ Hollister 2003, pp. 276–279
  274. ^ Hollister 2003, pp. 276–277
  275. ^ a b Hollister 2003, pp. 277–278
  276. ^ Green 2009, p. 66
  277. ^ Hollister 2003, p. 278; Green 2009, p. 167
  278. ^ Hollister 2003, p. 280; Green 2009, p. 168
  279. ^ 森、P31 - P34。
  280. ^ Hollister 2003, p. 280
  281. ^ Green 2009, p. 169
  282. ^ Hollister 2003, p. 281; Thompson 2003, p. 137; Green 2009, p. 169
  283. ^ a b Hollister 2003, p. 282
  284. ^ a b Hollister 2003, p. 290
  285. ^ Hollister 2003, p. 291
  286. ^ a b Hollister 2003, p. 292
  287. ^ Hollister 2003, pp. 292–293; Green 2009, p. 179
  288. ^ Green 2009, pp. 179–180; Crouch 1986, p. 15
  289. ^ Hollister 2003, pp. 293–294
  290. ^ Hollister 2003, pp. 297–298; Green 2009, p. 184
  291. ^ a b Hollister 2003, p. 300
  292. ^ Hollister 2003, pp. 302–303; Green 2009, pp. 186–187
  293. ^ Hollister 2003, p. 306
  294. ^ Ward 2006, p. 20
  295. ^ 森、P31 - P34。
  296. ^ Hollister 2003, pp. 308–309; Green 2009, p. 170
  297. ^ Green 2009, pp. 170
  298. ^ Hollister 2003, p. 310
  299. ^ Green 2009, p. 168
  300. ^ Hollister 2003, pp. 312–313
  301. ^ Hollister 2003, pp. 311–312
  302. ^ Hollister 2003, p. 396
  303. ^ Hollister 2003, p. 309
  304. ^ Green 2009, pp. 193–194
  305. ^ Hollister 2003, p. 318; Green 2009, p. 191
  306. ^ Green 2009, pp. 196–197
  307. ^ Green 2009, p. 197
  308. ^ Hollister 2003, pp. 319–321; Green 2009, pp. 197–198
  309. ^ Hollister 2003, p. 321
  310. ^ Hollister 2003, pp. 325–326
  311. ^ Hollister 2003, p. 326; Newman 1988, pp. 57–58
  312. ^ Hollister 2003, p. 323
  313. ^ 青山、P221 - P222、ルゴエレル、P30、朝治、P27 - P29。
  314. ^ Hollister 2003, p. 324
  315. ^ Hollister 2003, pp. 324–325; Green 2009, pp. 202–203
  316. ^ Chibnall 1993, pp. 56, 60
  317. ^ Hollister 2003, p. 463; Chibnall 1993, p. 57
  318. ^ Hollister 2003, p. 463; Green 2009, pp. 58–61
  319. ^ Hollister 2003, p. 465; Green 2009, p. 213
  320. ^ King 2010, pp. 38–39
  321. ^ Green 2009, pp. 216–217; King 2010, p. 38; Crouch 1986, p. 162
  322. ^ Barlow 1999, p. 162; Hollister 2003, p. 467
  323. ^ Hollister 2003, pp. 467, 473
  324. ^ ヘンリー・オブ・ハンティングドン『アングル人の歴史(Historia Anglorum)』12世紀、森、P35。
  325. ^ Hollister 2003, pp. 467–468, 473
  326. ^ Hollister 2003, p. 473
  327. ^ Hollister 2003, pp. 467, 473; Green 2009, p. 220
  328. ^ Hollister 2003, pp. 467, 474
  329. ^ Crouch 2002, p. 246
  330. ^ King 2010, pp. 47–48
  331. ^ Barlow 1999, p. 163; King 2010, p. 43
  332. ^ Warren, Wilfred L. (1973). Henry II. Berkeley: University of California Press. pp. 14, 18–19. ISBN 978-0-52002282-9. http://archive.org/details/henryii00warr 
  333. ^ King 2010, p. 43
  334. ^ Carpenter 2004, pp. 169–171
  335. ^ Green 2009, pp. 1–2; Newman 1988, p. 7
  336. ^ Green 2009, pp. 2–5; Newman 1988, p. 7
  337. ^ Green 2009, pp. 6–7
  338. ^ Green 2009, p. 9
  339. ^ Green 2009, p. 11
  340. ^ 森、P29。
  341. ^ David 1929, pp. 45–46
  342. ^ Green 2009, p. 33; David 1929, p. 56
  343. ^ Green 2009, pp. 14–17
  344. ^ Green 2009, pp. 14–15; David, Carpenter (7 July 2006). “Off the Rocks”. Times Literary Supplement. http://www.the-tls.co.uk/tls/archives/ 2013年2月22日閲覧。. ( 要購読契約)
  345. ^ Green 2009, p. 314; Southern 1962, p. 231, cited in Green 2009, p. 314; Poole 1993, p. 99
  346. ^ Green 2009, p. 314; Green 1989, p. 1; Cooper 2001, p. 65; Hollister 2003, pp. 484–485
  347. ^ Green 2009, pp. 15, 319; Hollister & Baldwin 1978, pp. 867–868
  348. ^ Remembering a King”. Reading Museum. Reading Borough Council (2018年7月5日). 2018年12月5日閲覧。
  349. ^ a b Duffy 2003, p. 52
  350. ^ “A Search for Bones of Henry I is Planned in Reading”. BBC News. (2015年3月24日). https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-berkshire-32037999 2015年3月26日閲覧。 
  351. ^ Thompson 2003, p. 130; White 1949, pp. 105–121
  352. ^ Thompson 2003, pp. 141–143
  353. ^ Thompson 2003, pp. 143, 146
  354. ^ Thompson 2003, pp. 143–146
  355. ^ a b c d Thompson 2003, p. 146; Green 2009, p. 322
  356. ^ a b Thompson 2003, p. 146
  357. ^ Thompson 2003, pp. 146–147
  358. ^ a b c d e f g h Thompson 2003, p. 149
  359. ^ Thompson 2003, pp. 147–148; Green 2009, p. 322
  360. ^ a b Thompson 2003, p. 147
  361. ^ 青山、P302 - P304、P330 - P332、P337、朝治、P234
  362. ^ Thompson 2003, p. 148
  363. ^ Thompson 2003, pp. 148–149
  364. ^ a b c d e Thompson 2003, p. 150

参考文献

編集

外部リンク

編集