クラウディウス・シルウァヌス

クラウディウス・シルウァヌス(Claudius Silvanus, - 355年)は、ローマ帝国フランク人で、355年に28日間、ローマ皇帝(在位:355年)を名乗っていたとされる人物である。

クラウディウス・シルウァヌス
Claudius Silvanus
ローマ皇帝
在位 355年

死去 355年
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生涯

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シルウァヌスはガリア生まれのフランク人で、彼の父はコンスタンティヌス1世に仕えた将軍ボニトゥス英語版とされる[1]。シルウァヌスも父と同じように軍人としてローマ帝国に仕え、初めはマグネンティウスの下でトリブヌス、次いでコンスタンティウス2世の下でマギステル・ミリトゥムを務めた。当時シルウァヌスは若い青年であったとされ、これは異例の昇進だった。シルウァヌスは有能な武人であるだけでなく、優れた人格と気質で非常に評判が良かったという。

352年、彼はコンスタンティウス2世よりガリアのアラマンニ人を制圧するという困難な任務を与えられた。彼は私財を投じてアラマンニ人を買収し、大きな成功を収めた。しかしシルウァヌスの声望が高まるにつれ、宮廷では彼に嫉妬する声が強まり、陰謀によってシルウァヌスに反逆の罪がかぶせられた。

シルウァヌスは非難と処刑の脅威に怯え、355年8月11日コロニア・アグリッピネンシスで自らが皇帝となることを宣言し、下位階級のローマ兵の多くがシルウァヌスへの忠誠を宣言した。そのころ宮廷では、シルウァヌスと同じフランク人の将軍だったメロバウデスらが訴えをおこし、シルウァヌスへの疑いを晴らすことに成功していた。しかし皇帝を名乗って28日目となる9月7日、シルウァヌスの後継者として指名されていたウルシキヌス英語版の放った刺客によってシルウァヌスは殺害された。

シルウァヌスには息子がいたとされるが、逃亡して生きのびたという。この逃亡した息子の名誉は、後にユリアヌスによって回復された。

脚注

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  1. ^ 南川高志 著「ローマ的世界秩序の崩壊」、南川高志 編『378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、35頁。ISBN 9784634445024 

参考文献

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