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本来の表記は「嵆紹」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

嵆 紹(けい しょう、253年 - 304年)は、中国西晋の政治家。延祖。父は竹林の七賢の一人であり、の中散大夫であった嵆康。子は嵆眕譙国銍県(現在の安徽省淮北市濉渓県)の人。晋書においては忠義伝の筆頭に記載されている。

生涯編集

263年、父の嵆康が鍾会の讒言により処刑されたので、嵆紹は家に籠って過ごす事を余儀なくされた。母へ孝行を尽くし、その様は甚だ恭謹であったという。

281年、嵆康より嵆紹の事を託されていた山濤は、嵆紹の罪を許して秘書郎に取り立てる様に武帝へ上表した。武帝はこれを認め、より高位である秘書丞に任じた。当初、嵆紹はこの任官を辞退しようとしたが、山濤は嵆紹の家を訪れて自ら説得に当たったので、遂にこれを容れて仕官した。

やがて汝陰郡太守へと昇進し、さらに豫章郡内史に移ったが、母が亡くなったので辞退した。服喪期間が明けると、改めて徐州刺史に任じられた。当時の都督である石崇は驕暴な性格であったが、嵆紹は道理をもってこれを諭したので、石崇より甚だ親敬された。この後、長子の嵆眕を亡くしたので職を辞した。

291年、復職して給事黄門侍郎に任じられた。当時、恵帝外戚である賈謐は皇帝を凌ぐ程の権勢を握っており、潘岳杜斌を始めとした士大夫24名を集めて『金谷二十四友』と呼ばれる文学集団を形成していた。嵆紹もまた賈謐より誘いを受けたが、応じなかった。

300年4月、趙王司馬倫が賈氏一派を誅殺して政権を掌握すると、嵆紹は賈氏に擦り寄っていなかった事から誅殺を免れ、弋陽子爵に封じられた。その後、散騎常侍に移り、領国子博士に任じられた。

ある時、太尉・広陵公陳準が亡くなると、太常官は彼に贈る諡号について上奏した。嵆紹はこれに対して「諡号を不朽とする事の本分は、大きな行いには大名を与え、細い行いには細名を授ける事にあります。故に、文・武という諡号はその功徳を明らかにし、霊・厲という諡号はその愚昧を明らかにするものでありました。しかしながら近年、礼官は私情を挟んで諡号を贈っており、根本に拠っておりません。準(陳準)は諡号を贈るには過ぎたる者であり、『繆(錯誤を意味する)』と諡するのが妥当かと」と反論した。結局この進言は用いられなかったが、朝廷は彼の発言を恐れ憚ったという。

301年1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、嵆紹は侍中に任じられた。4月、司馬倫が左衛将軍王輿らに誅殺されて恵帝が復位すると、嵆紹は引き続き侍中を任された。嵆紹は上書して「臣が聞くところによりますと、前の轍を改める者は車を傾けず、往時の弊害を革める者は政を間違えないといいます。太一は元首を統率し、百司は多士を役しました。故に周文(文王)は上を興し、成康(周の成王康王)は下を穆したのです。『存して亡ぶるを忘れず』とは『』の善義であります。願くば、陛下が金墉を忘れず、大司馬が潁上を忘れず、大将軍が黄橋を忘れる事のありませんよう(恵帝は金墉城に幽閉され、大司馬司馬冏は潁上で敗れ、大将軍司馬穎は黄橋で敗れた)。そうすれば、禍乱の萌が兆す事は無いでしょう」と述べ、司馬倫の帝位簒奪という過ちを繰り返さないよう戒めた。

これより以前、司空張華は司馬倫に疎まれて誅殺されていた。その為、朝廷では張華の名誉回復について議論され、爵位を復帰させる事が決められた。しかし嵆紹は「臣下が君主に仕える事とは、煩いを除いて惑いを去らせる事にあります。華(張華)は内外で歴位しており、大きな善事があったものの、闔棺の責は遠近において明らかであり、禍が兆し乱が始まったのは実に華(張華)によるものでしょう。かつて鄭(鄭子家)は幽公の乱を討ち、子家の棺を斬りました。魯は隠を弑した罪によって最期には公子翬を貶しました。未だ重戮を忍んでおらず、この事を広めるわけにはいかないでしょう。その爵位を戻すべきではなく、まずはその罪が無いかを理すべきです」と反論した。

司馬倫の死後は斉王司馬冏が輔政の任に就いたが、彼は奢侈な生活を送って邸宅や館舎を大いに建築した。その為、嵆紹は司馬冏に書を送って「夏禹(夏王朝の始祖である)は卑室である事で称賛を受け、唐虞()は茅茨である事により徳を明らかにしました。家屋を大きくしても無益であり危亡を招きます。第舎を広くする為に太楽を毀敗し、力を尽して三王の為に宅を建てておりますが、はたして今日先を急いでやる事でしょうか!今、大事は定まり始め、万姓も粛敬となって潤いがもたらされるを待っているのです。起造の煩いを省き、謙損の理を深く考えるべきです。復主(恵帝の復位)の功を棄てるべきではありませんが、矢石(戦闘)の殆もまた忘れてはなりません」と諫めた。司馬冏はこれに謙虚な態度で報いたが、結局改める事は無かった。

302年12月、嵆紹は公職を免じられると、司馬冏は彼を招き入れて左司馬とした。だが、その10日後に政変が起こり、長沙王司馬乂は司馬冏を誅殺した。嵆紹は異変を察知すると、未だ交戦は止んでいなかったが、宮殿へと奔走した。東閤の下にいた弩兵は嵆紹へ向けて射掛けたが、殿中の将兵である蕭隆は嵆紹の立派な姿を見てただものではないと考え、彼の前に進み出て射撃を止めさせたので、嵆紹は禍を免れる事が出来た。その後、乱が鎮まると滎陽にある旧宅へと戻った。しばらくして御史中丞として招聘を受けたが、着任する前に侍中に復職した。

303年7月、河間王司馬顒・成都王司馬穎が司馬乂討伐を掲げて挙兵し、洛陽へと進撃した。司馬顒らの大軍が城東まで至ると、司馬乂は「今日の西討において、誰を都督とすべきか」と諸将に問うた。六軍の兵はみな「嵆侍中(嵆紹)を前駆としていただければ、死しても生となりましょう」と答えた。その為、嵆紹は使持節・平西将軍に任じられた。

304年1月、洛陽が陥落して司馬乂は処刑されると、嵆紹は捕縛されたものの、すぐに侍中に復帰した。その後、公王以下の百官はに赴いて司馬穎に謝罪すると、嵆紹らはみな免官となり、庶人に落とされた。

7月、東海王司馬越は司馬穎の振る舞いに憤り、右衛将軍陳眕や司馬乂の旧将上官巳らと共に恵帝を奉じ、司馬穎誅殺を掲げて決起した。嵆紹は司馬越らにより朝廷に召喚されると、その爵位を以前通りに戻された。嵆紹は天子蒙塵(皇帝が変事の為に都から逃げ出す事)の危機であるとして、詔を受けて行宮(天皇が出征する際に設ける仮の宮殿)へと馳せ参じた。同じく侍中であった秦準は「今これに従えば、その身の安否は測り難いぞ。卿は佳馬でも有しているのかね(優れた馬がいれば、いざという時に逃亡を図れる為)」と述べ、暗に皇帝軍に従わない事を勧めた。だが、嵆紹は顔つきを正して「大駕(天子)が親征し、正を以って逆を伐とうしているのだ。これは征であって戦では無い(征とは逆賊を討つ事を指す)。もし皇輿(天皇の乗る輿)を護衛できないならば、臣は節を果たすのみである。どうして駿馬が必要となるのか!」と言い放った。これを聞いて嘆息しない者はいなかった。

こうして皇帝軍は司馬穎の本拠地鄴へ向けて軍を発したが、司馬穎配下の石超により蕩陰で奇襲を受け、大敗を喫した。百官や侍御は慌てて四散してしまい、誰も恵帝を守ろうとする者はいなかった。ただ嵆紹だけは礼服姿で儼然とし、馬を下りて乗輿に乗り込み、身を挺して恵帝を庇った。司馬穎の兵が襲い掛かると、嵆紹は乗輿から引きずり出された。すると、恵帝は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟(司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人といわれております」と述べ、その命を無視した。雨の如く降り注ぐ矢により、嵆紹は遂に恵帝のすぐ側で射殺されてしまった。その血飛沫は恵帝の服にも飛び散り、恵帝はその死を目の当たりにして深く哀しみ嘆いたという。

その後、恵帝が鄴に連行されると、側近は血の付いた服を洗おうとしたが、恵帝は「これは嵆侍中(嵆紹)の血である。拭き取ってはならん!」と声を荒げたという。

死後編集

恵帝が長安に連れ去られた後、司馬顒は上表し、嵆紹に司空を追贈して公に進爵させようとした。だが、実行される前に恵帝が奪還されたので、結局有耶無耶となった。

308年、司馬越は許昌へ赴任する途上で滎陽に差し掛かり、嵆紹の墓を通りがかった。この時、司馬越は嵆紹を思って慟哭し、彼の為に石碑を立てると、改めて官爵を追贈するように上表した。恵帝は勅使を派遣して侍中・光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加え、さらに侯に進爵した。また、墓田一頃、客十戸を下賜し、少牢を祠とした。

313年、江東の政務・軍事を取り仕切る琅邪王司馬睿(後の元帝)は嵆紹の忠節を大いに称え、彼に贈られた礼がその勲徳に対して不十分であるとし、さらに太尉を追贈し、太牢を祠とするよう上表した。

318年、司馬睿が帝位に即くと、嵆紹は忠穆と諡され、改めて太牢の祠を加えられた。

評価編集

嵆紹の行いは小節を飾らず、心が広い上に慎み深く、全ての事において雑になる事が無かった。彼は従子の嵆含(嵆康の兄である嵆喜の孫で、嵆蕃の子)ら5人と共に暮らしていたが、自らの子と同じように慈しみ憐れんだという。

嵆紹の死後、門人や故吏は彼の遺愛を思慕し、喪に服して墓に仕える者は3年で30人を超えたという。嵆紹の事績は後の世にも広く語り継がれ、謝霊運の辞世の詩や南宋文天祥が作った『正気の歌』などに取り上げられている。

逸話編集

  • 嵆紹が洛陽に入って間もない頃、ある人が王戎へ「昨日、稠人の中で紹(嵆紹)の姿を初めて見たが、昂昂然としており、野鶴が鶏群にいるかの様でした。」と述べ、その佇まいを称えた。これに王戎は「君は彼の父を見た事が無いのであろうな」と答えた。
  • 尚書左僕射裴頠は嵆紹の才覚を高く評価し、常々「延祖(嵆紹の字)に吏部尚書(官吏を推挙する役職)を任せたならば、天下から遺才(在野に埋もれた才人)はいなくなるであろうな」と語っていたという。
  • 沛国出身の戴晞は幼い頃から才覚があり、嵆紹やその従子嵆含と親交深かった。当時の人は、戴晞は必ずや大成するであろうと信じていたが、嵆紹は大器にはならないと見なしていた。後に戴晞は司州主簿に任じられたが、行動が伴わなかったので、やがて追放されてしまった。郷里の人はみな、嵆紹には人の品行・才能を察知する能力があると称えた。
  • ある時、嵆紹は事業について相談する為に司馬冏の下を詣でたが、この時司馬冏は宴会を行っていた。その為、嵆紹もこれに参席し、董艾葛旟と共に時の政治について論じ合った。宴席の中で、董艾は「侍中(嵆紹)は絲竹(楽器)を善くすると聞いております。公(司馬冏)よ、演奏させてみましょう。」と勧めた。これにより側近は琴を出したが、嵆紹はこれを受け取らなかった。司馬冏は「今日は楽しむ時である。卿はどうして惜しむのか!」と言うと、嵆紹は「公は社稷を復し、規範に則ってこれを示しました。紹は卑しい身でありながらも、有難くも常に伯を備え、冠冕を身に付け、殿省に玉を鳴かせております(司馬冏の時代になって服装や装飾が奢侈となった事を暗に批判している)。その上、絲竹演奏しろというのは、伶人(楽師)にでもなれというつもりですか!もし公がこの私宴にて従わせようと言うのであれば、敢えて断りはしませんが」と答えた。司馬冏は大いに恥じ入り、董艾らも気まずくなって席を立った。

後継者編集

嵆紹の長男である嵆眕は父と同じ風格を有していると評されたが、早世してしまった。その為、従孫いとこの孫)の嵆翰(嵆含の子)が嵆紹の後を継いだ。嵆翰の孫の嵆曠東晋孝武帝に仕えた。

参考文献編集