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コリまたはゴリ(凝、許理、許利、碁理、牛利)は、ヤマト王権以前の称号の一つで、3 - 5世紀ごろの専門的職業人(または集団)とくに「切る」ことに精通しているものの名称として使われた。その名残は最近まで使われていた「キコリ(木を切る職業人)」にみられる。現在、「コリ(凝り)」(終止形はコル)は「あることに熱心である、あるいは精通している」という意味で使われている。

目次

概説編集

イシコリは石切りに精通しているもの、タケコリは剣に長けた戦士、カナコリは金属加工に精通しているもの、ニシコリは織物(錦)に精通しているもの、というように、精通分野の違いによって「コリ」の前につく語が変わる。また「コリ」は「コロ[注釈 1]」や「キリ[注釈 2]」への読替えも見られるようになる。「コリ」に当てられた文字の多様性(凝、許理、許利、碁理)や「コロ」・「キリ」への転化は、「コリ」の起源が古いことを意味している。すでに3世紀の邪馬台国に「都市牛利(トチゴリまたはトシコリ)」という人名が記されているところから、ヤマト政権以前に使われた名称と考えられる。

イシコリ編集

日本書紀』や『新撰姓氏録』などには作鏡連らの祖とされる「イシコリトベ」あるいは「イシコリドメ」(石凝姥、伊斯許理度売、石許利止賣)がいる。「トベ」や「ドメ」は女性首長あるいはカリスマ的女性を表す古代の称号で、「イシコリトベ」とは鏡作りに精通した女性首長あるいはカリスマ女性という意味である。鏡は石を切り出して精巧に作られた鋳型に溶かした青銅を流し込んで作るため、その専門的技能者あるいは集団は「イシコリ」と呼ばれた。

タケコリ編集

タケコリ(建凝)またはタケコロ(建己呂、多祁許呂、建許侶)茨城国造の祖とされ(『常陸国風土記』)、その子は師長国造相模国)、須恵国造上総国)、馬来田国造(同国望陀郡)、石背国造陸奥国石背郡)、道口岐閇国造常陸国北端)、および道奥菊多国造陸奥国菊多郡)に任じられたと『先代旧事本紀』が伝えている。「タケコリ」は特定の人物ではなく「武勇(タケ)に長けた剣士(コリ)」の名称であり、その子孫とは血縁でつながっているというよりは、軍事集団の仲間という意味合いが強い。

『新撰姓氏録』は庵智造の祖を「天津彦根命十四世孫建凝命(タケコリ)」、三枝部連の祖を「天津彦根命十四世孫建己呂命(タケコロ)」と記している。ここからタケコリ(建凝)はタケコロ(建己呂)と同一名であることがわかり、「コリ」から「コロ」への転化を読み取ることが出来る[注釈 3]

政治的カリスマとしてのコリ編集

コリやコロを称号とする地域の統治者がタケコリのほかにも見られる。[注釈 4]『新撰姓氏録』や『海部氏系図』には以下のようなコリを称する人物を伝えている。

神社伝承にもコリが見られる。

政治的カリスマとしての「コリ」は3世紀まで遡ることができる。3世紀の倭人伝に出てくる「トシゴリ(都市牛利)」はトチ(大和国十市)地域の軍事的主と解釈可能である。十市地域出身の軍事的カリスマ者にトチネ(十市根)がいる。トチ(十市)やタケチ(高市)とともに大和国六御縣と呼ばれるソフ(添)県主の祖「タケチノコリ(武乳遺命)」が『先代旧事本紀』第一巻「神代系紀」に見られる。「武乳遺」はタケチノコリ と読ませるのが通例で「タケチ(高市)地域の軍事的長」と解釈することができる。

いずれにしても、3 - 5世紀にかけてヤマトのカリスマ(指導者)の称号としてヒコヒメなどが知られているが、コリもまたその称号の一つと考えることができる。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 本居宣長『古事記伝』第22巻。宗像神社などの祭神「タコリヒメ(田許理比賣、田凝姫命)はタゴコロヒメ(田心姫)とも読み替えられている。『先代旧事本紀』「天孫本紀」に「イズシココロ(出石心大臣)」が見られるが、これはイズシコリの読み替えであることがわかる。
  2. ^ タコリヒメ(田許理比賣、田凝姫命)は「タキリ(多紀理)ヒメ」と呼ばれている。ここで「コリ」は「キリ」へと読み替えられている。キリには「切る」という意味合いがあるかもしれない。
  3. ^ コロには「殺す」や「切って転がす」という意味合いがあるかもしれない。
  4. ^ コリはほかの氏族系譜にも痕跡を留めている。
  5. ^ 『古事記伝』7巻によれば、「己己」は「己呂」の誤り。

出典編集