コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ
コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ(Constanza de Borgoña, 1046年頃 - 1093年頃)は、カスティーリャ王アルフォンソ6世の2番目の王妃。
コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ Constanza de Borgoña | |
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カスティーリャ王妃 | |
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在位 | 1079年 - 1093年頃 |
出生 |
1046年頃 |
死去 |
1093年頃![]() |
埋葬 |
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配偶者 | シャロン伯ユーグ2世 |
カスティーリャ王アルフォンソ6世 | |
子女 |
ウラカ エルビラ |
家名 | ブルゴーニュ家 |
父親 | ブルゴーニュ公ロベール1世 |
母親 | エリー・ド・スミュール |
宗教 | ローマ・カトリック |
生涯編集
父はブルゴーニュ公ロベール1世、母はエリー・ド・スミュール。フランス語名はコンスタンス・ド・ブルゴーニュ(Constance de Bourgogne)。アルフォンソ6世の庶子テレサと結婚したポルトゥカーレ伯エンリケ(ポルトガル王家の祖)は甥に当たる。
初婚で母エリーの従兄弟にあたるシャロン伯ユーグ2世と結婚し、14年間の結婚生活で子がないままで死別し未亡人となった。夫ユーグ2世は1078年、コンスタンサの甥ブルゴーニュ公ユーグ1世のスペインへの聖地巡礼に同行し、その途中で死去した。
一説で甥ユーグ1世が未亡人となった叔母コンスタンサを王妃の座が空席になったばかりのアルフォンソ6世と引き合わせたとされる。アルフォンソ6世はクリュニー修道院の修道院協会と宗教的および政治的な和解を行い、クリュニー修道院長聖ユーグの姪(コンスタンサの母エリーは聖ユーグの実姉)にあたるコンスタンサと結婚することで関係の強化を画策した。
アルフォンソ6世の先妻イネス・デ・アキタニアはコンスタンサの遠縁の親族にあたることから、近親結婚であるとされ教皇からの反対に直面した。
結婚式はコンスタンサが1079から1080年の年の変わり目にレオンに到着した後に行われ、長女ウラカは早くも1080年後半迄には生まれたとされる。
王妃となって以降、コンスタンサはレオン王国とクリュニー修道院の関係を取り持つ他、実家ブルゴーニュ家とヒメノ家の仲介者として働いた。
1087年にコンスタンサの甥で先代のブルゴーニュ公ユーグ1世より、公位を継承したブルゴーニュ公ウード1世がムーア人との戦闘のためスペインに渡り、その側近として元ブルゴーニュ伯、アンスカリ家出身でその年にウラカと結婚したライムンド・デ・ボルゴーニャがいた。
コンスタンサは1093年7月25日~10月25日までの間に死去した。コンスタンサの命日について、前者の記録は分権の最後のあたりに記録されたが、後者の命日にサアグンの修道僧達が国王夫妻の魂の救済のために祈りを捧げたところ、コンスタンサは既に死去しており、請願者としての記録に国王アルフォンソ6世の名のみ記載され、王妃コンスタンサの名は残っていない。
コンスタンサは死去した後、サアグンのサン・ファクンドおよびサン・プリミティーヴォ修道院(後の王立サン・ベニート修道院)に埋葬された。
アルフォンソ6世と結婚し、下記の名が判明している2女の他4人の子をもうけたが、無事に成人したのは長女ウラカだけであった。存命中コンスタンサは夫の女性関係に苦しんだとされる。
- ウラカ (1079年頃 - 1126年) - カスティーリャ女王
- エルビラ(夭逝)