サッカーベーメン・メーレン保護領代表

サッカーベーメン・メーレン保護領代表(サッカーべーれん・めーれんほごりょうだいひょう、ドイツ語: Böhmisch-mährische Fußballnationalmannschaft)は、ナチス・ドイツ1939年から1945年の間に、ボヘミアモラヴィアの主要部分に設置したチェコ人の保護領である、ベーメン・メーレン保護領サッカーナショナルチームである。ナチス・ドイツ関連のナショナルチームと数試合行われており、サッカードイツ代表の戦績にもカウントされている。

サッカーベーメン・メーレン保護領代表
国または地域 ベーメン・メーレン保護領
協会 ベーメン・メーレン保護領サッカー協会
監督 František Blažej
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合 1939年5月14日ドイツ
3-3
最大差勝利試合 1939年8月27日ユーゴスラビア
7-3
最大差敗戦試合 1939年5月21日オストマルク
1-7[1]
FIFAワールドカップ
出場回数 0回

歴史 編集

1930年代後半、当時のチェコスロバキアサッカー協会は、5つの民族によって運営されていた。チェコスロバキア人、ユダヤ人ドイツ人ポーランド人、そしてハンガリー人であった。1938年1939年チェコスロバキア併合の後、チェコスロバキアサッカー協会からドイツ、ポーランド、ハンガリー人の協会が、それぞれの国のサッカー協会に吸収されていった(ユダヤ人の協会は、1936年1937年の間に解散していた)。残りのチェコスロバキアが「ベーメン・メーレン保護領」となると、1939年にサッカーベーメン・メーレン保護領代表が結成され、FIFAに加盟した。FIFAワールドカップの空白期(1942年1946年と中止になった)に当たり、ワールドカップ予選を経験する事はできなかったが、ナチス・ドイツと関連のナショナルチーム、ユーゴスラビア代表との対戦が行われた。代表選手は、主にチェコの強豪・SKスラヴィア・プラハから選出された。

1940年に入って、ベーメン・メーレン保護領に旅行禁止命令が出された。このため1945年5月8日にプラハ陥落によって、ベーメン・メーレン保護領が消滅するまでチームは存続したが、1940年以降は全く対外試合をする事が出来なかった。

FIFAワールドカップ 編集

  • 歴代記録
    • ワールドカップの空白期(1942年、1946年大会の中止)に当たり、予選自体が開かれなかった。

公式戦績 編集

主な代表選手 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 旧オーストリア地域に当たり、サッカーオーストリア代表消滅(1938年3月)後、ナチス・ドイツ代表と袂を分かつ形で結成されたチームである。
  2. ^ fotbal.cz: „Čechy a Morava 7 - 3 (3 - 1) Jugoslávie“(ドイツ語)
  3. ^ fotbal.cz: „Čechy a Morava ČR 5 - 5 (1 - 3) Ostmarka“(ドイツ語)

参考文献 編集

  • Radovan Jelínek, Miloslav Jenšík et al.: Atlas českého fotbalu od roku 1890, Prag 2005, OCLC 85162510

外部リンク 編集