ジーン・カークパトリック

ジーン・ジョーダン・カークパトリック(英語:Jeane Jordan Kirkpatrick1926年11月19日 - 2006年12月7日)は、アメリカ合衆国政治学者外交官、反共産主義者。ジョージタウン大学教授(1967年 - 1980年)を務めた。

ジーン・カークパトリック
Jeane Kirkpatrick
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生年月日 (1926-11-19) 1926年11月19日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オクラホマ州ダンカン
没年月日 (2006-12-07) 2006年12月7日(80歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 メリーランド州ベセスダ
出身校 スティーブンス・カレッジ
コロンビア大学
所属政党 共和党(1985 - 2006)
民主党(1948 - 1985)
社会党(1945 - 1948)
称号 政治学博士号(コロンビア大学
配偶者 エフロン・カークパトリック
子女 3人

在任期間 1981年2月4日 - 1985年4月1日
大統領 ロナルド・レーガン
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生涯編集

1926年11月19日にオクラホマ州ダンカンに誕生する。12歳の時にイリノイ州へ引っ越し、1948年バーナード・カレッジを卒業した。その後コロンビア大学でフランツ・レオポルド・ノイマンに師事し、政治学博士号を取得した。

当初はマックス・シャハトマンが主宰する青年社会主義同盟の活動家であったが、ジミー・カーター政権の人権外交に反発し、民主党から共和党へ支持政党を転向し、アメリカ新世紀プロジェクトの賛同者に名を連ねる[1]など新保守主義者(ネオコン)の典型と言える。1980年ロナルド・レーガンの選対で外交政策顧問を務めた。その後、レーガン政権時代にアメリカ初の女性国際連合大使に就任した。1983年に発生した大韓航空機撃墜事件では、当事国のソビエト連邦(当時)を徹底的に追及した。グアテマラフィリピンアルゼンチンの親米独裁政権、アフガニスタン紛争でのムジャヒディンアンゴラ内戦アンゴラ全面独立民族同盟ニカラグア内戦コントラなどの支援を理論付けたカークパトリック・ドクトリンを主張した[2]

2006年12月7日にメリーランド州ベセスダの自宅で、心不全により死去した。80歳であった。

参照編集

  1. ^ William Kristol, et al., Letter to George W. Bush, September 20, 2001, newamericancentury.org, n.d., accessed June 1, 2007.
  2. ^ Chomsky, Noam (1985). Turning the Tide. Boston, Massachusetts: South End Press. ISBN 0-89608-266-0.

外部リンク編集

先代:
ドナルド・マクヘンリー
  アメリカ合衆国国際連合大使
第16代:1981年2月4日 - 1985年4月1日
次代:
ヴァーノン・A・ウォルターズ