チェチェクトゥモンゴル語: Čečektü中国語: 徹徹禿、? - 1339年)は、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの庶子のアスタイの孫。『元史』などの漢文史料では(郯王)徹徹禿/闍闍禿ペルシア語史料ではچکتو(Chektū)と記される。

概要編集

仁宗・英宗父子の時代編集

チェチェクトゥはモンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの孫の衛王オルジェイの息子として生まれた[1]。チェチェクトゥが史料上に現れ始めるのはブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世のことで、皇慶元年(1312年)には父のオルジェイとともに金銀鈔の下賜を受けている[2]

ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の治世の後半、至治2年(1322年)にはモンゴリアに派遣され[3]武寧王に封ぜられている[4]が、これは当時大元ウルス西北で勢力を拡大しつつあったコシラに対処するためであったと考えられている[5]

泰定帝の時代編集

1323年、「南坡の変」にてゲゲーン・カアンが暗殺され、イェスン・テムル・カアン(泰定帝)が即位して後もチェチェクトゥはモンゴリアにおいて重用され続けた[6]。泰定元年(1324年)には父の地位を受け継ぎ、モンケ・ウルス当主の座に就いた[7]。チェチェクトゥはカラコルム一帯にウルスを構えた[8]

これ以後、チェチェクトゥは屡々イェスン・テムル・カアン政権から下賜を受けている[9][10][11][12]。イェスン・テムルの短い治世から見るとその数は多く、チェチェクトゥがイェスン・テムルより重用されていたことが窺える。泰定3年(1326年)にはイェスン・テムル・カアンの甥で側近の梁王オンシャンとともにモンゴリアを鎮撫することを命じられている[13]

「天暦の内乱」において編集

1328年、イェスン・テムル・カアンが死去すると、その遺児のアリギバを擁立する上都派と、トク・テムルを擁立する大都派の間で天暦の内乱が勃発した。しかしモンゴリアに領地を持つチェチェクトゥはこれを機にそれまで敵対していたチャガタイ・ウルスに亡命中のコシラに接近し、コシラが大元ウルス領に帰還する手引きを行った。同年10月、チェチェクトゥはアルタイ山脈を越えてきたコシラを迎えており[14]、カラコルムにおけるコシラの即位宣言においてもチェチェクトゥが大きな役割を果たしたと見られる[15]

折しも上都派と大都派の戦闘は大都派の勝利となり、トク・テムルが既にカアン位に即いており、このままではコシラとトク・テムルの間で争いが起こるのは必至であった。そこでコシラ勢力代表としてトク・テムル勢力と交渉を行ったのがチェチェクトゥで、天暦2年(1329年)初頭にまず使者を派遣し[16]、その3カ月後には自ら使者としてトク・テムル勢力の下を訪れた[17][18]

チェチェクトゥらの交渉により一旦はトク・テムルがカアン位をコシラに譲るという合意がなされ、チェチェクトゥらはトク・テムルにより下賜を受けた[19][20]。ところがオングチャドでのクリルタイでコシラは急死を遂げ(エル・テムルらによる謀殺と見られる)、急遽トク・テムルが改めてカアン位に即くこととなった。

晩年編集

至順2年(1331年)、チェチェクトゥは最高ランクの「郯王」位を与えられ[21][22]、改めてその高い地位が保証された。

1333年、ジャヤガトゥ・カアンが死去すると次代のカアン位を巡って再び政争が勃発した。メルキト部のバヤンはコシラの息子のトゴン・テムルをカアン位に就ける(ウカアト・カアン)ことで実権を握ったが、これにエル・テムルの一族が反発しクーデターを計画した。このクーデター計画にはモンケ家のコンコ・テムルも荷担していたが、このクーデター計画をチェチェクトゥが告発し、エル・テムルの一族及びコンコ・テムルは処刑されてしまった[23]

身内を告発することで再びその地位を保つことができたチェチェクトゥであったが、至元4年(1338年)にバヤンから提案されたお互いの子の結婚を断ったことで、バヤンの恨みを買ってしまう。バヤンはイキレス部の昌王シーラップ・ドルジにチェチェクトゥを告発させ、この告発を元にウカアト・カアンにチェチェクトゥの死刑を求めた。更にバヤンはウカアト・カアンの許しが出る前に先走ってチェチェクトゥを処刑してしまった[24]

この後、バヤンの甥のトクトがバヤンを失脚させると、チェチェクトゥの名誉は回復され没収された資産をその子孫に返還するよう働きかけられた。しかしチェチェクトゥの子孫については史料上に記録が残っておらず、この一件を期にモンケ・ウルスは弱体化してしまったものと見られる[25]

モンケ家の系図編集

  • モンケ・カアン…トルイの長男で、モンケ・ウルスの創始者。
    • バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子。
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子。
    • ウルン・タシュ(Ürüng-daš,玉龍答失/اورنگتاشŪrung tāsh)…モンケの次男で、第2代モンケ・ウルス当主。
      • サルバン(Sarban,撒里蛮/ساربانSārbān)…ウルン・タシュの息子。
    • シリギ(Sirigi,昔里吉شیرکیShīrkī)…モンケの庶子で、第3代モンケ・ウルス当主。
      • ウルス・ブカ(Ulus-buqa,兀魯思不花王/اولوس بوقاŪlūs būqā)…シリギの息子で、第4代モンケ・ウルス当主。
        • コンコ・テムル(Qongqo-temür,并王晃火帖木児/قونان تیمورQūnān tīmūr)…ウルス・ブカの息子
          • チェリク・テムル(Čerik-temür,徹里帖木児)…コンコ・テムルの息子で、第7代モンケ・ウルス当主。
        • テグス・ブカ(Tegüs-buqa,武平王帖古思不花)…ウルス・ブカの息子、コンコ・テムルの弟で、第2代武平王。
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…シリギの息子。
      • トゥメン・テムル(Tümen-temür,武平王禿満帖木児/تومان تیمورTūmān tīmūr)…シリギの息子で、初代武平王。
    • アスタイ(Asudai,阿速歹/آسوتایĀsūtāī)…モンケの庶子
      • オルジェイ(Ölǰei,衛王完沢/اولجایŪljāī)…アスタイの息子で、第5代モンケ・ウルス当主。
        • チェチェクトゥ(Čečektü,郯王徹徹禿/چکتوChektū)…オルジェイの息子で、第6代モンケ・ウルス当主。
      • フラチュ(Hulaču,忽剌出/هولاچوHūlāchū)…アスタイの息子。
      • ハントム(Hantom,هنتوم/Hantūm)…アスタイの息子。
      • オルジェイ・ブカ(Ölǰei buqa,اولجای بوقا/Ūljāī būqā)…アスタイの息子。

[26]

脚注編集

  1. ^ 『元史』「宗室世系表」及びペルシア語史料の『五族譜』や『高貴系譜』は一致してチェチェクトゥがオルジェイ(ölǰei>完沢/اولجای)の息子であると記す。
  2. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年秋三月]戊申……賜安王完沢及其子金三百両・銀一千二百五十両・鈔三千五百錠、賜汴梁路上方寺地百頃」
  3. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治二年秋七月]壬子、遣親王徹徹禿総兵北辺、賜金二百五十両・銀二千五百両・鈔五十万貫」
  4. ^ 『元史』巻20英宗本紀2,「[至治二年十二月]封徹徹禿為武寧王、授金印」(但し、『元史』「諸王表」ではチェチェクトゥが武寧王に封ぜられたのは泰定三年のこととしており、どちらの記述が正しいかについては議論がある/村岡2013,110頁)
  5. ^ 先々帝カイシャンの遺児であるコシラはアユルバルワダ政権の陰謀によって暗殺されかかり、この頃チャガタイ・ウルスに亡命し仁宗-英宗政権と敵対していた(村岡2013,110頁)
  6. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年十二月]丙子、命嶺北守辺諸王徹徹禿、月修仏事、以卻寇兵」
  7. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年七月]丙申、以諸王徹徹禿襲統其父完者所部、仍給故印」
  8. ^ 村岡2013,105/頁
  9. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年春正月]辛丑……賜諸王徹徹禿金一錠・銀六十錠・幣帛各百匹……」
  10. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年]閏月丁卯、賜諸王徹徹禿・渾都帖木児鈔各五千錠」
  11. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年春正月]諸王徹徹禿・晃火帖木児来朝、賜金・銀・鈔・幣有差」
  12. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[致和元年三月]是月、諸王喃答失・徹徹禿・火沙・乃馬台諸郡風雪斃畜牧、士卒饑、賑糧五万石・鈔四十万錠」
  13. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定三年四月]乙未、命梁王王禅及諸王徹徹禿鎮撫北軍、賜王禅鈔五千錠・幣帛各二百匹」
  14. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[歳戊辰]十月……至金山、嶺北行省平章政事潑皮奉迎、武寧王徹徹禿・僉枢密院事帖木児不花継至」
  15. ^ 村岡2013,111頁
  16. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦二年春正月]辛酉……武寧王徹徹禿遣使来言皇兄啓行之期」
  17. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天暦二年夏四月]癸卯、明宗遣武寧王徹徹禿・中書平章政事哈八児禿来錫命、立帝為皇太子、命仍置詹事院、罷儲慶司」
  18. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[天暦二年夏四月]癸卯……遣武寧王徹徹禿及哈八児禿立文宗為皇太子,仍立詹事院,罷儲慶司……」
  19. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天暦二年五月]丙子、武寧王徹徹禿・中書平章政事哈八児禿至自行在所、致立皇太子之命。賜徹徹禿金五百両、餘有差」
  20. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天暦二年夏四月]九月戊午、賜武寧王徹徹禿金百両・銀五百両……」
  21. ^ 『元史』巻108諸王表,「郯王 徹徹禿、至順二年由武寧王進封」
  22. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年二月]丁巳、駙馬卜顔帖木児自北辺従武寧王徹徹禿来朝……。壬戌、改封武寧王徹徹禿為郯王、賜以金印……」
  23. ^ 『元史』巻138列伝25,「[唐其勢]遂与撒敦弟答里潜蓄異心、交通所親諸王晃火帖木児、謀援立以危社稷。帝数召答里不至。郯王徹徹禿遂発其謀」
  24. ^ 村岡2013,114-115頁
  25. ^ 村岡2013,115-117頁
  26. ^ 村岡2013,117頁

参考文献編集

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
  • 村岡倫「シリギの乱 : 元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第 24/25合併号、1985年
  • 村岡倫「モンケ・カアンの後裔たちとカラコルム」『モンゴル国現存モンゴル帝国・元朝碑文の研究』大阪国際大学、2013年
  • 新元史』巻112列伝9
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19