ノッティンガム
ノッティンガム(Nottingham)は、イングランドの中心部ノッティンガムシャーにある単一自治体。町の中心をレーン川が流れ、南の境界線にはトレント川が流れている。
シティ・オブ・ノッティンガム City of Nottingham ![]() | |
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位置 | |
![]() ノッティンガムの位置 (拡大図の白い範囲はノッティンガムシャー) | |
位置 | |
座標 : 北緯52度57分 西経1度8分 / 北緯52.950度 西経1.133度 | |
歴史 | |
市制 | 1897年 |
行政 | |
国 | ![]() |
連合王国 | ![]() |
リージョン | イースト・ミッドランズ |
カウンティ | ノッティンガムシャー |
市 | シティ・オブ・ノッティンガム |
地理 | |
面積 | |
市域 | 74.61 km2 (28.8 mi2) |
人口 | |
人口 | (2007年現在) |
市域 | 288,700人 |
人口密度 | 3,735人/km2(9,674人/mi2) |
都市圏 | 666,358人 |
その他 | |
等時帯 | 西ヨーロッパ時間 (UTC+0) |
夏時間 | 西ヨーロッパ夏時間 (UTC+1) |
Postcode | |
ISO 3166-2 | GB-NGM |
公式ウェブサイト : http://www.nottinghamcity.gov.uk/ |
人口はおよそ275,100人とイングランドでは27位、郊外には70万人以上が住んでいると言われている。学生が多く、人口の約10%は学生である。
歴史編集
西暦600年より後にはアングロ・サクソンが住んでいた。後にデーン人により支配されるようになり、9世紀ころにはデーンロウの一部であった。
中世にはロビン・フッドの伝説によって有名になった。ロビン・フッドはノッティンガムから北へ30kmほど行った所にあるシャーウッドの森に住んでいたと言われている。
清教徒革命(イングランド内戦)が勃発した場所でもあり、1642年8月にイングランド王チャールズ1世はノッティンガムで王党派を結集し、議会派(長期議会)討伐を掲げて挙兵、第一次イングランド内戦が始まった。
近世のノッティンガムは町の美しさに定評があり、17世紀末にイングランドを旅した女性旅行家のシーリア・ファインズはノッティンガムを自分が訪れた中でもっとも美しい町と評し、ノッティンガムを基準に多くの町を評価した[1]。
しかし、19世紀の産業革命と人口の急増にノッティンガムは対応できなかった。町の境界に隣接する自由農民たちの開放耕地によって郊外に宅地を開発することが妨げられ、過密なスラム街を抱える劣悪な住環境の都市となってしまった[1]。1920年代から1930年代になってスラム街は一掃された。
産業編集
交通編集
- M1自動車道
- ミッドランド・メインライン ノッティンガムとロンドンを結ぶ鉄道会社
- イースト・ミッドランズ空港 bmibaby、ライアンエアー、イージージェットなどが就航
- ノッティンガム・エクスプレス・トランジット -2004年に開業したLRT(路面電車方式を採用したライトレール)。民間資本と行政が一体となって事業を行う「PFI事業」によって建設が進められた。一部区間は在来鉄道の貨物線の廃線跡を利用して建設されている。
教育編集
ノッティンガム大学とノッティンガム・トレント大学という2つの大学があり、40,000人以上の学生が学んでいる。
観光編集
スポーツ編集
ノッティンガム・フォレストFCとノッツ・カウンティFCという2つのサッカークラブがあり、スポーツは盛んである。
出身人物編集
- アラン・シリトー - 作家
- アンディ・コール - サッカー選手
- イアン・ペイス - ディープ・パープルのドラマー
- サマンサ・モートン - 女優
- ジェイク・バグ - シンガーソングライター
- ジャーメイン・ジェナス - サッカー選手
- D・H・ローレンス - 作家
- ドナルド・プレザンス - 俳優
- ハロルド・シップマン - 医者・連続殺人犯
- ポール・スミス - ファッションデザイナー
姉妹都市編集
脚注編集
- ^ a b W.G.ホスキンズ 著、柴田忠作 訳 『景観の歴史学』東海大学出版会、2008年。ISBN 9784486017301。 pp.302-313.
外部リンク編集
政府
- ノッティンガム公式サイト (英語)
観光
- ノッティンガム観光局 (英語)
- 英国政府観光庁 - ノッティンガム (日本語)