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ノボルトウコウ1969年4月14日 - 1984年)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬種牡馬。「花の47年組」の一頭であり、通算68戦出走はイナボレス[1]の76戦に次ぐ記録。馬主の渡辺喜八郎は運輸・物流業の「東江グループ」創業者であり、オークス馬のトウコウエルザのオーナーでもあった。息子の渡邊隆がそれを引き継ぎ、後にオフサイドトラップエルコンドルパサースシトレインのオーナーとして活躍。

ノボルトウコウ
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1969年4月14日
死没 1984年
パーソロン
サンピユロー
母の父 シーフュリュー
生国 日本の旗 日本
福島県田村郡小野町
生産 今泉牧場
馬主 渡辺喜八郎
調教師 加藤朝治郎(中山
競走成績
生涯成績 69戦13勝
獲得賞金 1億8237万4800円
勝ち鞍 スプリンターズステークス(1972年)
小倉大賞典(1974年)
関屋記念(1974年)
福島記念(1974年)
七夕賞(1975年)
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目次

経歴編集

半弟には中央競馬で史上初めて芦毛馬によるクラシック制覇を成し遂げたプレストウコウ、5代母には1932年第1回東京優駿大競走で3着に入ったアサハギがいる。

1969年4月14日福島県の今泉牧場で誕生しているが、2日後の4月16日には同期のツキサムホマレが産まれている。

戦績編集

1971年7月新潟でデビューし、新馬戦は2着に10馬身差の圧勝。その後も順調に成績を残し、1着1回・2着4回と安定したレースぶりを見せる。掲示板を外したのは白菊Sと朝日杯3歳Sの6着のみ。1972年中山のオープン戦3着、福島で行われた東京4歳S2着と好走。春のクラシック戦線に参戦するも、1冠目の皐月賞は大差負けの14着、NHK杯は15着、2冠目の日本ダービーは25着と3戦連続で2桁着順の惨敗に終わった。その後は3ヶ月の休養を経て、復帰戦となったスプリンターズSでは10頭中9番人気の低評価を覆して重賞初制覇を飾る。カブトヤマ記念クモハタ記念は惨敗に終わったが、中山のオープンを勝った後はステイヤーズSに参戦。スプリンターズSの優勝馬が3600mの重賞に挑戦するという現在では考えられないローテーションだが、やはり距離が長すぎたのか、いい所をひとつも見せられずに殿負けを喫した。1973年は連覇を狙ったスプリンターズSは2着に終わり、福島大賞典関屋記念では3着。中京記念12着・安田記念13着以外は大きく負けなかったものの、全体的に冴えない競馬が続き、勝利したのは2月のオープン戦のみだった。1974年小倉大賞典で1番人気に応えて重賞2勝目を挙げ、騎乗した安田富男[2]はこれが初制覇となった。続く関屋記念も勝って重賞3勝目を2連勝で飾り、6月大井で行われた中央招待ではゴールドイーグル愛知)・イナボレスの3着に入った。秋は福島民報杯をレコードタイムで快勝し、福島記念では58.5kgのトップハンデを背負ったが、伏兵のハルイチをクビ差退けて重賞4勝目を挙げる。1975年東京で行われた金杯(東)15着、AJCC5着の後、ダートのオープン戦で勝利。10月に行われた七夕賞で重賞5勝目を挙げたが、有馬記念では9着だった。1976年中山記念ヤマブキオーアイフルの3着に入ったが、続くオープン戦は1番人気で12着だった。吾妻小富士賞は快勝したものの、福島民報杯7着を最後に引退。

引退後編集

引退後は種牡馬となり、1977年に供用が開始された。種牡馬となった際には、現役時代に騎乗した安田が、産駒の馬主と中央競馬での受け入れ先厩舎を確保するため、関係者に依頼して回ったという[3]。安田は後に「忘れられない馬」と語っている[4]。目立った産駒を出せずに1984年死去。

競走成績編集

脚注編集

  1. ^ 中央競馬重賞最多出走記録保持馬。雑誌「優駿」2000年12月号、p48
  2. ^ 安田は後にJRA全10場重賞制覇を達成しているが、ノボルトウコウ1頭で3場分の勝利を挙げた。
  3. ^ 更級四郎「馬ものがたり」(講談社1992年)p180-181
  4. ^ 雑誌「優駿」1996年9月号 「優駿・ロングインタビュー 安田富男 - 落ちこぼれの勲章」p56
  5. ^ 以前はオープン特別。