バイロン・スコット

アメリカのバスケットボール選手、ヘッドコーチ (1961 - )

バイロン・アントン・スコットByron Anton Scott, 1961年3月28日 - )、 はアメリカ合衆国の元北米プロバスケットボールリーグNBAの選手。現役引退後はバスケットボールの指導者となる。選手時代は1980年代のロサンゼルス・レイカーズに所属し、一世を風靡した"ショータイム・バスケット"の一員として活躍した。2008年には最優秀コーチ賞を受賞した。

バイロン・スコット
Byron Scott
引退
ポジション SG
役職 ESPN解説者
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1961-03-28) 1961年3月28日(63歳)
出身地 ユタ州オグデン
身長(現役時) 191cm (6 ft 3 in)
体重(現役時) 88kg (194 lb)
キャリア情報
出身 アリゾナ州立大学
NBAドラフト 1983年 / 1巡目 / 全体4位[1]
選手経歴
1983–1993
1993–1995
1995–1996
1996–1997
1997–1998
ロサンゼルス・レイカーズ
インディアナ・ペイサーズ
バンクーバー・グリズリーズ
ロサンゼルス・レイカーズ
ギリシャの旗 パナシナイコスBC
指導者経歴
1998-2000
2000-2003
2004-2009
2010-2013
2014-2016
サクラメント・キングス (AC)
ニュージャージー・ネッツ
ニューオーリンズ・ホーネッツ
クリーブランド・キャバリアーズ
ロサンゼルス・レイカーズ
受賞歴

選手時代

コーチ時代

Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

選手キャリア

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ショータイム

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アリゾナ州立大学でプレイした後、1983年のNBAドラフトにてサンディエゴ・クリッパーズ1巡目4位指名を受けるが、直後にノーム・ニクソンとの交換でロサンゼルス・レイカーズにトレードされた。スコットはこのレイカーズで、3つのチャンピオンリングと共に1992-93シーズンまでの10シーズンを過ごすことになる。

スコットはルーキーイヤーとなった1983-84シーズンから先発に抜擢され、平均10.6得点の成績を残し、オールルーキーファーストチームに選ばれた。2年目にはシューターとしての能力を発揮するようになり、スリーポイントシュート成功率43.4%は見事にリーグ1位にランクされ、平均15得点以上を稼ぎ出す有力なスコアラーに成長した。

当時のレイカーズはカリーム・アブドゥル=ジャバー マジック・ジョンソンジェームス・ウォージーらスター選手を擁し、黄金時代を迎えていた。レイカーズは"ショータイム・バスケット"と称した華やかな速攻を中心としたオフェンスを展開し、リーグを席巻。スコットもシューター、あるいは速攻の一番手を駆ける選手として重要な役割を果たし、カリームのリバウンドからマジックのパスを受けてスコットのスリーポイントシュート、あるいはダンクというラインはレイカーズの重要な得点パターンの一つだった。またスコットは優秀なディフェンダーでもあり、攻守両面でチームに貢献していた。

スコット2年目の1984-85シーズン、レイカーズはファイナルで因縁のライバルチームボストン・セルティックスを破り、優勝を果たす。スコットは早くも1つ目のチャンピオンリングを手に入れた。1986-87シーズンでもレイカーズはセルティックスを破り、スコットは2つ目のチャンピオンリングを手に入れる。そして翌1987-88シーズンにスコットはキャリア初、そして唯一となる平均20得点を突破する平均21.7得点を記録。これはウォージーやマジックらを抑えたチームハイの成績だった。レイカーズはファイナルでセルティックスの代わりに新たに台頭してきたデトロイト・ピストンズを降し、連覇を果たした。スコットが手に入れたチャンピオンリングは3つとなった。

以後もスコットはウォージー、マジックに次ぐチーム3番目のスコアラーとして活躍。レイカーズも依然としてリーグ有数の強豪だったが、新たに台頭したピストンズ、フェニックス・サンズ、そしてシカゴ・ブルズに阻まれ、優勝からは遠ざかった。1990年代に入り30歳を越えたスコットは成績が次第に下降し始めた。そしてレイカーズもカリーム、マジックら中心選手が次々と引退し、ショータイムは終焉の時を迎えた。そしてスコットも10シーズンプレイしてきたレイカーズを離れ、1993年にインディアナ・ペイサーズに移籍することになった。

ショータイム以後

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ペイサーズでは優勝経験の豊富なベテランとしての役割が求められ、レジー・ミラーの控えとしてプレイした。ペイサーズでは2シーズンプレイし、1995年には新たに創設されたバンクーバー・グリズリーズに移籍した。創設1年目のグリズリーズではキャリアで初めてプレイオフ不出場を経験した。 グリズリーズで1シーズンだけプレイした後、スコットは3シーズンぶりに古巣のロサンゼルス・レイカーズに復帰する。スコット不在の間にレイカーズは大物センターシャキール・オニールを獲得し、再建に成功していた。またスコットがレイカーズに復帰した時、コービー・ブライアントはルーキーだった。スコットは平均6.7得点を記録したこの1996-97シーズンを最後に、NBAから退くことになった。

NBAキャリア通算成績は1073試合に出場、平均14.3得点2.8リバウンド2.5アシスト1.1スティール。FG成功率48.2%、スリーポイントシュート成功率37.0%、フリースロー成功率83.3%。

ヨーロッパへ

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スコットはパナシナイコスBCで、選手生活の最後を締め括った。(1998年)

35歳のスコットはNBAからは引退したが、現役選手としては引退せず、スコットはヨーロッパにプレイの場を求め、1997年にギリシャA1バスケットボールリーグの名門パナシナイコスBCと契約。スコットはパナシナイコスで1シーズンしかプレイしなかったが、36歳のスコットはパナシナイコスに大きな足跡を残す。

1997-98シーズン、スコットは平均18.3得点3.1リバウンド2.2アシストの好成績を記録し、チームをリーグのプレイオフ決勝に導いた。決勝ではPAOKテッサロニキにと対戦。テッサロキニキには後にNBAのスター選手となるペジャ・ストヤコヴィッチが所属していた。スコットはこの名シューターを好ディフェンスで苦しめ、シリーズ最終戦の第5戦ではフィールドゴール成功数3本に抑え、自らは23得点を記録した。パナシナイコスは優勝を果たし、スコットはファイナルMVPを獲得した。スコットは選手キャリアの最後を有終の美で締めくくった。

通算成績

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略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック  PPG  平均得点  太字  キャリアハイ
NBAチャンピオン

レギュラーシーズン

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1983–84 レイカーズ 74 49 22.1 .484 .235 .806 2.2 2.4 1.1 .3 10.6
1984–85 レイカーズ 81 65 28.5 .539 .433 .820 2.6 3.0 1.1 .2 16.0
1985–86 レイカーズ 76 62 28.8 .513 .361 .784 2.5 2.2 1.1 .2 15.4
1986–87 レイカーズ 82 82 33.3 .489 .436 .892 3.5 3.4 1.5 .2 17.0
1987–88 レイカーズ 81 81 37.6 .527 .346 .858 4.1 4.1 1.9 .3 21.7
1988–89 レイカーズ 74 73 35.2 .491 .399 .863 4.1 3.1 1.5 .4 19.6
1989–90 レイカーズ 77 77 33.7 .470 .423 .766 3.1 3.6 1.0 .4 15.5
1990–91 レイカーズ 82 82 32.1 .477 .324 .797 3.0 2.2 1.2 .3 14.5
1991–92 レイカーズ 82 82 32.7 .458 .344 .838 3.8 2.8 1.3 .3 14.9
1992–93 レイカーズ 58 53 28.9 .449 .326 .848 2.3 2.7 .9 .2 13.7
1993–94 ペイサーズ 67 2 17.9 .467 .365 .805 1.6 2.0 .9 .1 10.4
1994–95 ペイサーズ 80 1 19.1 .455 .389 .850 1.9 1.4 .8 .2 10.0
1995–96 グリズリーズ 80 0 23.7 .401 .335 .835 2.4 1.5 .8 .3 10.2
1996–97 レイカーズ 79 8 18.2 .430 .388 .841 1.5 1.3 .6 .2 6.7
Career 1073 717 28.1 .482 .370 .833 2.8 2.5 1.1 .3 14.1

プレーオフ

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1984 レイカーズ 20 0 20.2 .460 .200 .600 1.9 1.7 .9 .1 8.6
1985 レイカーズ 19 19 30.8 .517 .476 .795 2.7 2.6 2.2 .2 16.9
1986 レイカーズ 14 14 33.6 .497 .353 .905 3.9 3.0 1.4 .1 16.0
1987 レイカーズ 18 18 33.8 .490 .206 .791 3.4 3.2 1.1 .2 14.8
1988 レイカーズ 24 24 37.4 .499 .436 .865 4.2 2.5 1.4 .2 19.6
1989 レイカーズ 11 11 36.5 .494 .385 .836 4.1 2.3 1.6 .2 19.9
1990 レイカーズ 9 9 36.1 .462 .382 .769 4.1 2.6 2.2 .3 13.4
1991 レイカーズ 18 18 37.7 .511 .526 .794 3.2 1.6 1.3 .2 13.2
1992 レイカーズ 4 4 37.0 .500 .583 .889 2.5 3.5 1.5 .3 18.8
1993 レイカーズ 5 5 35.4 .500 .533 .783 2.2 1.8 1.0 .0 13.6
1994 ペイサーズ 16 0 14.9 .396 .474 .784 2.1 1.3 .8 .1 7.8
1995 ペイサーズ 17 0 17.5 .340 .265 .882 1.5 .9 .6 .1 6.1
1997 レイカーズ 8 0 16.8 .455 .364 .895 1.5 1.4 .1 .0 6.4
Career 183 122 29.3 .482 .395 .819 2.9 2.1 1.2 .2 13.4

コーチキャリア

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スコットのコーチキャリアは1998年、サクラメント・キングスのアシスタントコーチから始まった。スコットはシューティング専門のコーチとして、チームのスリーポイントシュート成功率の向上に貢献した。

ニュージャージー・ネッツ

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2000年にスコットはニュージャージー・ネッツのヘッドコーチに抜擢される。ヘッドコーチデビューとなった2000-01シーズンは、故障者が多かったこともあり26勝56敗と振るわなかった。しかしオフにネッツは重要なトレードを行う。それはステフォン・マーブリージェイソン・キッドのトレードだった。マーブリーの代わりに得たキッドはネッツを全く別のチームに作り変えてしまった。翌2001-02シーズン、ネッツは大躍進を遂げ、52勝30敗と勝ち星を前シーズンから倍に伸ばした。プレーオフでも快進撃は続き、ファイナルにまで進出。対戦相手はスコットの古巣、ロサンゼルス・レイカーズだった。シャキール・オニールコービー・ブライアントのコンビはスコットのチームを粉砕してしまい、ネッツは4戦全敗で敗退した。翌2002-03シーズンもファイナルに進出したが、今度はサンアントニオ・スパーズの前に敗れた。

スコットとキッドはネッツを強豪チームに育て上げたが、2人の仲は決して良好とは言えず、試合中にスコットが指示したことをキッドが拒否することもあった。そして2003-04シーズン、チームは序盤から安定感を欠き、またキッドとの不仲が公に報じられるようになり、試合中のタイムアウト中に、キッドと掴み合いの喧嘩をする寸前まで発展するなど、両者の関係は悪化していた。結局スコットはシーズン中にヘッドコーチから解任された。

ニューオーリンズ・ホーネッツ

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2005年、スコットはニューオーリンズ・ホーネッツのヘッドコーチに就任した。当時ホーネッツは低迷中だったが、スコットのヘッドコーチ就任、そして2005年のNBAドラフトクリス・ポールを指名したことで状況は好転し始めた。ヘッドコーチとしての1年目のシーズン開幕前にニューオーリンズをおそったハリケーン・カトリーナの影響でチームはオクラホマシティを1シーズン本拠地とした。

スコットがホーネッツを指揮して2年目の2006-07シーズン、チームはかつてスコットがギリシャ時代に対戦し、またキングスのアシスタントコーチ時代には所属選手としてコーチしたペジャ・ストヤコヴィッチを獲得するなど、プレーオフ進出を目指して大幅な補強を行った。しかしストヤコヴィッチはシーズンの大半を欠場し、他にも故障者が続出したことからチームは勝率5割を僅かに割り、プレーオフ進出はならなかった。

しかし翌2007-08シーズン、万全の体勢で臨んだホーネッツは大躍進を果たし、56勝26敗の成績でチーム史上初めて地区優勝を飾った。スコットは初めてNBAオールスターゲームのウェストチームをヘッドコーチとして指揮し、さらにNBA最優秀コーチ賞に輝いた。

2009-2010シーズンの開幕ダッシュに失敗し、スコットはシーズン序盤で解任された。

クリーブランド・キャバリアーズ

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2010年、クリーブランド・キャバリアーズのヘッドコーチに就任。スーパースターであるレブロン・ジェームズが抜けたチームの再建を託された。しかしチームを再建させることができず、2013年オフに解任された。

ロサンゼルス・レイカーズ

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2014年7月、ロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチに就任した[1]。しかし、1年目は21勝61敗、2年目の2015-16シーズンも17勝65敗に終わり、同シーズン終了後に解任された[2]

解説者に専念

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2017年8月6日、スコットはコーチの仕事から退き、ESPNの解説者に専念すると表明した[3]

ヘッドコーチ記録

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NBAヘッドコーチ実績表略号説明
レギュラーシーズン G 試合数 W 勝利数 L 敗戦数 W–L % レギュラーシーズン勝率
ポストシーズン PG 試合数 PW 勝利数 PL 敗戦数 PW–L % プレイオフ勝率
チーム シーズン G W L W–L% シーズン結果 PG PW PL PW–L% 最終結果
ネッツ 2000–01 82 26 56 .317 6th in Atlantic Missed Playoffs
ネッツ 2001–02 82 52 30 .634 1st in Atlantic 20 11 9 .550 ファイナル敗退
ネッツ 2002–03 82 49 33 .598 1st in Atlantic 20 14 6 .700 ファイナル敗退
ネッツ 2003–04 42 22 20 .524 (fired)
ホーネッツ 2004–05 82 18 64 .220 5th in Southwest Missed Playoffs
ホーネッツ 2005–06 82 38 44 .463 4th in Southwest Missed Playoffs
ホーネッツ 2006–07 82 39 43 .476 4th in Southwest Missed Playoffs
ホーネッツ 2007–08 82 56 26 .683 1st in Southwest 12 7 5 .583 カンファレンスセミファイナル敗退
ホーネッツ 2008–09 82 49 33 .598 4th in Southwest 5 1 4 .200 1st.ラウンド敗退
ホーネッツ 2009–10 9 3 6 .333 (fired)
キャバリアーズ 2010–11 82 19 63 .232 5th in Central Missed Playoffs
キャバリアーズ 2011–12 66 21 45 .318 5th in Central Missed Playoffs
キャバリアーズ 2012–13 82 24 58 .293 5th in Central Missed Playoffs
レイカーズ 2014–15 82 21 61 .256 5th in Pacific Missed Playoffs
Career 1019 437 582 .429 57 33 24 .579

指導スタイル

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直立不動のヘッドコーチとして知られる。NBAのコーチの中には試合中に大きな声や身振り手振りで選手に指示をする者も多いが、スコットは腕組みをしたまま寡黙に試合の行方を見守る。またチームに優秀な司令塔がいるためか選手任せとの声も聞かれ、タイムアウトでの戦術的な指示はアシスタントコーチに任せ、自身は叱咤激励だけするというスタイルである。 もっともスコットのコーチングスタイルは、レイカーズ時代の恩師であり、起用法を巡って確執があったというパット・ライリーのスタイルとそっくりだと揶揄されている。

脚註

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外部リンク

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