フセスラフ・ブリャチスラヴィチ

フセスラフ・ブリャチスラヴィチ[1]ベラルーシ語: Усясла́ў Брачысла́вічロシア語: Всесла́в Брячисла́вич1044年以前 - 1101年4月14日)は、キエフ大公(在位:1068年 - 1069年)、ポロツク公(在位:1044年 - 1068年、1071年 - 1101年)。ポロツクは現在のベラルーシの都市である。父はポロツク公ブリャチェスラフ1世。子にはポロツク公ログヴォロド、ヴィテプスク公スヴャトスラフロマン、ポロツク公ダヴィドミンスク公グレプ、ルコームリ公ロスティスラフ、ポロツク公ボリスがいる。孫にはプレドスラヴァなど[2]

フセスラフ・ブリャチスラヴィチ
Усясла́ў Брачысла́віч
キエフ大公
Usiaslau sr 2005.gif
2005年にベラルーシで発行された記念硬貨
在位 1068年 - 1069年
別号 ポロツク公
在位 1044年-1068年 1071年-1101年

出生 1044年以前
死去 1101年4月14日
子女 ログヴォロド
スヴャトスラフ
ロマン
ダヴィド
グレプ
ロスティスラフ
ボリス
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 ポロツク公ブリャチェスラフ1世
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経歴編集

父はポロツク公ブリャチェスラフ1世、母の名は不明である。『原初年代記』には「母親はフセスラフを魔法によって産んだ。彼は魔法使い達の勧めにより、生まれた時から被っていた膜を一生涯頭に巻きつけていた。彼が流血に容赦がないのはこのためである。」と出生時の逸話を載せる。1044年に父が死去すると公位に就く。1060年、従叔父(祖父の兄弟の子)に当たるイジャスラフフセヴォロドスヴャトスラフらと共に、無数の戦士や馬及び舟を集めた軍勢を以ってトルク族(黒海北部の遊牧民)への遠征に従軍する。この戦いでトルク族は黒海北東のドン河周辺へと追いやられた。

1067年、フセスラフは戦争を始め、ノヴゴロドを奪取した。『キエフ年代記[3]『ノヴゴロド第三年代記』[4]によればこの時、フセスラフは町に火をかけて聖ソフィア大聖堂の全財産、複数の大燭台や鐘のほかに、ノヴゴロドの貢物納入所(ポゴスト)を一箇所奪い取った。これに対してイジャスラフ、スヴャトスラフ、フセヴォロドら兄弟は戦士を集めて、冬の最も厳しい時期にフセスラフ攻撃に向った。ポロツク公国領のミンスク(現ベラルーシ首都)の住民は、イジャスラフらの軍勢に篭城するも敗れ、男は殺され、女子供は捕虜とされた。連合軍がネミガ河に近づくとフセスラフは迎撃に向い、3月3日に両軍はネミガ河畔で対峙した。戦闘が始まると激しい戦いにより双方に多くの被害が出たが、結果としてイジャスラフら兄弟が勝利し、フセスラフは敗走した。

同年の7月3日にイジャスラフら兄弟は十字架に口づけして誓ったうえで、フセスラフに対して和睦を提案した。これを信用したフセスラフは従叔父の元に向ったが、スモレンスクのほとり、オルシャ河畔で誓いを破ったイジャスラフに捕縛されてしまう。その後はイジャスラフによってキエフに連行され、息子二人と共に牢獄に入れられる。

当時のキエフ南部は、勢力を伸ばしてきたテュルク系遊牧民ポロヴェツ族と領域を接していた。そのポロヴェツ族が翌年の1068年に来襲すると、イジャスラフら兄弟はレタ河畔で迎撃を試みたが敗北する。イジャスラフフセヴォロドがキエフへと撤退すると、町の住民らは人民会を開き徹底抗戦を望んだ。しかし、イジャスラフが聞き入れなかったために暴動が発生する。蜂起した人々は、フセスラフの解放とイジャスラフ邸への襲撃とに分かれて行動を開始した。イジャスラフと共に館を守っていた親衛隊の一人がフセスラフの牢へ人数を回すように進言するも、とき既に遅くフセスラフは開放されていた。またこの時、親衛隊はフセスラフを騙まし討ちするように主に説いたがそれに従わず、イジャスラフとフセヴォロドは隙を見て館を去り、イジャスラフはリャフ人(ポーランド)のもとへ逃亡した。キエフの人々は9月15日にフセスラフを解放し、イジャスラフ邸の中央に於いて大公に据えた。『原初年代記』ではこの一連のエピソードを、神がイジャスラフの背信を罰し、民衆に十字架の力を示したものと説明している。また、聖十字架祭の日(9月14日)にフセスラフが「名誉の十字架よ!我をこの牢獄から救え。何となれば我は汝を信じたからである」と言ったと紹介している[5]。その後、フセスラフはキエフに7ヶ月君臨した。

翌年の1069年、イジャスラフがリャフ侯のボレスラフ[6]の軍勢と共にフセスラフ攻撃に出陣する。フセスラフは迎撃に向うが、ベルゴロド(現ビロホロードカ)[7]に至ると夜半密かにポロツクに逃走した。フセスラフの軍勢にいた人々はキエフに戻るとスヴャトスラフ、フセヴォロドに遣いを出し、イジャスラフとの和睦と大公への復帰を取り成すよう頼んだ。イジャスラフはこれを承認したが、キエフに派遣した彼の子のムスチスラフはフセスラフを牢から放った70名を殺し、また暴動に加わった者も、そうでない者へも危害を加えた。その後、イジャスラフはキエフの人々に迎えられ5月2日に玉座に戻った。この時、イジャスラフは修道士アントニー(ペチェルスキー修道院初代院長、後に聖人)に対して、詳細は不明だがフセスラフの事で怒り始めたため、スヴャトスラフが密かにチェルニゴフに保護している[8]。また、イジャスラフはフセスラフをポロツクから放逐し、息子のムスチスラフをポロツク公に据えた。ムスチスラフが死ぬと彼の兄弟のスヴャトポルクを置いた。 同年、フセスラフは再びノヴゴロドを襲撃したが、ノヴゴロドの人々を率いたグレプ(スヴャトスラフの子)とグゼニ川畔ズヴェリネツで戦い、 10 月23 日に敗れた[9]。この戦いでヴォジェネ族の殺された者は多かった[10]

1071年、フセスラフはスヴャトポルクをポロツクから追い払い、2年ぶりに公の座に戻った。同年、イジャスラフの子、ヤロポルクにゴロチチェスク[11]のほとりで戦うも敗北する。2年後の1073年、スヴャトスラフとフセヴォロドは兄のイジャスラフと対立し、彼をキエフから追放した。この時、スヴャトスラフはフセヴォロドに「イジャスラフは我等に対抗するためにフセスラフと結ぼうとしている。我らが先んじなければ我らが敗れるであろう」と言ってフセヴォロドをけしかけ、そのためにイジャスラフはリャフへと逃亡した[12]。1077年の春、ノヴゴロド公グレプおよびウラジーミル2世との間で戦いがあった[13]。翌1078年、フセスラフがスモレンスクを焼き払うと、冬にその報復としてスヴャトポルクウラジーミル2世らが出陣する。彼らはフセスラフを追撃しながらポロツクの領内を焼き払い、ルカムリロゴシスクドリユテスクまで戦い進んだが、その後、帰還した。1084年の秋にウラジーミル2世がチェルニゴフの人民とポロヴェツ族、チチェヴィチ族と共にミンスクを占領し、奴隷や家畜を根こそぎ略奪しているが、その際のフセスラフの動向は不明。

1101年、4月14日、水曜日に死去。

文学や伝承におけるフセスラフ編集

『イーゴリ遠征譚』での記述編集

イーゴリ遠征物語』あるいは『イーゴリ遠征譚』とは、1185年におこった、イーゴリによる遊牧民ポロヴェツ人への遠征を元にした物語である。以下、フセスラフに言及する主な部分を引用する。

日本語訳(木村彰一訳)

フセスラーフ, うまし乙女[14]を得んものと,賽を投げた。計を用いて, 槍を支えに, キエフ目指して身をおどらせ, 古き都のこがねのみくらに柄をふれた。かと見れば, 血にかわくけものとなって, 夜半のころ, 人目しのんで、ベールゴロトをおどり出た, 青霧に身をばつつんで。
このフセスラーフ,幸運をつかむこと両三度。ノーヴゴロトの門うち破り、ヤロスラーフのほまれをくじき、おおかみとなってネミーガへ走り一一麦打ちの平場を踏んだ。[15]ネミーガの岸に敷いたは,穀束ならで人の首。穂を打つは,フランクのはがねのからさお。人の命を平場に積んで,箕にかけて,身と魂を吹き分ける。ネミーガの血に染む岸に,まかるるは, 野の幸ならで, ロシアの子らの骨また骨。
公として諸人を裁き,公としてあまたの町を治めたが,夜半ともなればおおかみとなって走った。キエフの都を抜け出でて,夜いまだあけぬに,はやトムータラカンに走り着く。大ホルスの行く手をすらさえぎりとめたこのおおかみ。[16]
朝まだきボーロツクなるソフィヤ[17]の鐘が,朝の祈りを告げたとき, この公はキエフにあってそのねをきいた。心は魔術師,身は二つのこの公も,あまたたび悲運に泣いた。
さればこそ,神にも似たる神人ボヤーン,この公を予言して,かくは歌った。《妖術をあやつる者も,狡知にたけたる者も,声高らかに鳴く鳥も, 神の裁きをのがるるすべなし》。

『イーゴリ遠征譚』におけるフセスラフの記述は、(ベルゴロドの逃走のあとにネミガ川の戦いがあるなど)時系列が多少前後するものの概ね史実を踏まえて書かれている。明確に歴史と異なる箇所は、狼へ変身したり霧を操ったり移動速度が速かったりといった点があげられる。木村彰一は「イーゴリ遠征譚 (訳及註)(VI)」の註釈で、この箇所における史実に見られない描写は「フセスラフ伝説」ともいえるモチーフに色濃く影響を受けているとする。

ブィリーナへの影響編集

ロシアに伝わる口承叙事詩(ブィリーナ)に登場する勇士の一人にヴォルフ・フセスラヴィエヴィチ(Волх Всеславиевич)[Volx Vseslavievic]がいる。ブィリーナにおいてヴォルフは、母マルファ・フセスラヴィエヴナと蛇との間に生まれ、鷹、灰色狼、金角牛などへの変身能力を修得し、15歳で7000の従士を集めてインドを征服する、といった活躍をする。 このヴォルフだが「フセスラヴィエヴィチ」がフセスラフの父称であることは言うまでも無いこととして、R・ヤコブソンや伊東一郎らはヴォルフのモデルとしてフセスラフを比定している。『イーゴリ遠征譚』に見えるフセスラフの特徴には「呪術」「狼への変身」があげられるが、叙事詩の主人公の名ヴォルフ(Волх)を呪術師を意味する普通名詞ヴォルフヴ(волхв)[volxv]が固有名詞化したものと解釈し[18]、また、スラヴやセルビアには「羊膜をつけて生まれた子は人狼となる」といった俗信が、フセスラフ誕生の逸話の「膜」を被って生まれたという記述と合致することをその傍証にあげている。[19][20]

出典編集

  1. ^ 山田隆『『罪と罰』にみられるロシア人の名前について』によると古代スラブ語で「もっとも栄えある」といった意味。Все=全ての、最も、слав=栄光。
  2. ^ 日本古代ロシア研究会「リューリク王朝系図」(1981) ,p36
  3. ^ 除村「キエフ年代記」(1943),p464。なお、1178年にフセヴォロド1世の玄孫・ムスチスラフ・ロスチスラヴィチはこの事件の報復としてフセスラフの曾孫、フセスラフ・ヴァシリコヴィチの治めるポロツクへの遠征を試みるも兄のロマン・ロスチスラヴィチに阻まれた。(なお除村訳ではフセスラフの「祖父」の所業としているがスヴャトスラフにはノヴゴロド襲撃の事跡は無いため曽祖父の誤りと考え併記する)
  4. ^ 木村(1979),p89。日本古代ロシア研究会「大ノヴゴロド内政[I]」ではこの事件を1066年のこととしている。
  5. ^ 除村「原初年代記」(1943),p129
  6. ^ 國本(1987),p477-478 ボレスワフ2世。彼の母はイジャスラフのおば(マリア・ドグロネヴァ)であり、イジャスラフの妻は彼の父の妹ゲルトルド。更にボレスワフ2世の妻はイジャスラフの妹に当たるヴィシェスラヴァであり、両家は深い姻戚関係にあった。
  7. ^ 木村(1979),p90。註によると現ロシアのベルゴロド州ではなく、キエフ西方のビロホロードカ村。
  8. ^ 國本(1987),p489 ペチェルスキー修道院はフセスラフを一時的に支持した。ただし、長老のアントニーは(多大な影響力はあるとはいえ)洞窟で修道生活を送っており、当時の院長はフェオドシー。
  9. ^ 日本古代ロシア研究会「大ノヴゴロド内政[I]」(1981)p250
  10. ^ 國本(1987),p478。『ソフィア年代記』、『ニコン年代記』の記事による。また、ヴォジェネはフセスラフが保護を求めたフィン系の民族。
  11. ^ 國本(1987),p479。ポロツク地方の町。正確な位置は不明。チェルニゴフとポロツクの間にあったとされる。
  12. ^ 國本(1987),p481。イジャスラフの言葉はフセヴォロドを唆す為のものであったが、國本『ロシア原初年代記』が註に引くS.H.Cross : The Russian Primary Chronicleによるとドネプル川を挟んで、西側のキエフとポロツク、東側のチェルニゴフとペレヤスラヴリという対立構図は1025年のヤロスラフ1世と弟・ムスチスラフの争いと同様であり、イジャスラフとフセスラフの同盟というのもいくらか真実味があったとしている。
  13. ^ 國本(1987),p519
  14. ^ 木村(1979),p90。註によるとキエフ大公の位を指す。
  15. ^ 木村(1979),p92。註によると「麦打ちの平場~」以下の描写は戦闘を農耕に例えている。
  16. ^ 木村(1979),p92。註によるとホルスは古ロシアの太陽神。また、伊東,(1981)p779ではスラヴには人狼が日食、月食を引き起こすという迷信があることから、フセスラフが月食を引き起こしたことの比喩と解釈している。
  17. ^ 木村(1979),p93。註によるとフセスラフが建てたとされる聖ソフィア大聖堂 (ポラツク)を指す。
  18. ^ 中沢(2014)p260。注釈の中でフセスラフのことを「呪術公」と異名付きで表記している。
  19. ^ 伊東(1981),p778-779
  20. ^ 國本(1987),p468。國本『ロシア原初年代記』が註に引くS.H.Cross : The Russian Primary Chronicleでも同様の指摘があり『イーゴリ軍記』やブィリーナにおける人狼としての「フセスラフ伝説」は年代記の出生時の逸話と密接な関係があるとしている。

参考文献編集

  • 森安達也 訳註 『イーゴリ遠征物語 - 悲劇のロシア英雄伝』 筑摩書房、1987年。
  • 除村 吉太郎 訳註 『ロシヤ年代記』 弘文堂書房、 1943。
  • 木村彰一「イーゴリ遠征譚 (訳及註)(VI)」、『スラヴ研究』第231号、北海道大学スラブ研究センター、1979年、 pp.87-94。
  • 日本古代ロシア研究会 [編] 『古代ロシア研究』第14号、日本古代ロシア研究会、1981年
  • 伊東一郎「スラヴ人における人狼信仰」、『国立民族学博物館研究報告』、1981年pp767-796。
  • 中沢敦夫「イパーチイ年代記』翻訳と注釈(1) ―『原初年代記』への追加記事(1110~1117年)の注釈」、『富山大学人文学部紀要』61号、2014年、pp233-268。
  • 中村喜和「ギリシャ頭巾の謎」、『一橋論叢』76号、日本評論社、1976年、pp570-581.
  • 山田隆『『罪と罰』にみられるロシア人の名前について』”. 2017年6月29日閲覧。第10回札幌大学国際文化フォーラムの講演要旨、及び付属資料。
  • 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。
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