ブリトン・チャンス
ブリトン・チャンス(英語: Britton Chance、1913年7月24日 - 2010年11月16日)は、アメリカ合衆国の生物物理学者。
ブリトン・チャンス | |
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生誕 |
1913年7月24日 ペンシルベニア州 |
死没 | 2010年11月16日(97歳没) |
研究分野 |
生化学 生物物理学 |
研究機関 | ペンシルベニア大学 |
出身校 |
ペンシルベニア大学 ケンブリッジ大学 |
主な業績 | 酵素反応速度論、光学イメージング、核磁気共鳴画像法 |
主な受賞歴 |
フランクリン・メダル(1966) ガードナー国際賞(1972) アメリカ国家科学賞(1974) |
プロジェクト:人物伝 |
獲得メダル | ||
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![]() | ||
男子 セーリング | ||
オリンピックセーリング競技 | ||
金 | 1952 | 5.5m級 |
経歴・人物編集
彼はペンシルベニア州ウィルクス・バリで生まれ、1935年に学士号、1936年に修士号、1940年に物理化学の博士号をペンシルベニア大学で取得した。1942年にはケンブリッジ大学で、赤外線を用いて様々な組織や脳腫瘍を特定する研究を行い、生理学の2つ目の博士号を取った。
1952年に全米科学アカデミーに選ばれ、1968年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員、1981年には王立協会の外国人会員になった。
第二次世界大戦中には、チャンスはマサチューセッツ工科大学の放射研究所でレーダーの開発を行った。
ペンシルベニア大学医学部のエルドリッジ・R・ジョンソン・生化学・生物物理学名誉教授。また、物理化学及び放射線物理学の名誉教授も務めた。同校医学部には彼の名を冠したステラー・チャンス研究棟(Stellar-Chance Laboratories)がある。
また、ヨット(セーリング)競技の選手としても知られ、1952年のヘルシンキオリンピックでは、セーリング競技の5.5m級でエドガー・ホワイト、サマー・ホワイトとともに金メダルを獲得した。
2010年11月16日に亡くなった[1]。97歳没。
名誉学位編集
- 医学博士号 - カロリンスカ研究所(1962年)、デュッセルドルフ大学(1991年)、ブエノスアイレス大学(1993年)、コペンハーゲン大学(1995年)、ローマ大学(1997年)
- 理学博士号 - オハイオ医科大学(1974年)、センメルワイス大学(1975)、ハーネマン医科大学(1977年)、ペンシルベニア大学(1985年)、ヘルシンキ大学(1990年)
受賞歴編集
- 1950年 - ファイザー酵素化学賞
- 1966年 - フランクリン・メダル
- 1970年 - ハイネケン賞、ウィリアム・H・ニコルズ賞
- 1972年 - ガードナー国際賞
- 1974年 - アメリカ国家科学賞
- 1987年 - 生物物理学賞
- 1990年 - ベンジャミン・フランクリン・メダル
出典編集
- ^ Weber, Bruce (2010年11月28日). “Britton Chance, Olympian and Biophysics Researcher, Dies at 97”. The New York Times. オリジナルの2010年12月1日時点におけるアーカイブ。 2010年11月30日閲覧。