ホレホレ節
概要
編集1885年に始まったハワイへの移民は官約移民と呼ばれ、1924年まで西日本出身者を中心に約22万人がハワイへ渡った[1]。官約移民たちの労働は過酷で、炎暑のサトウキビ畑で働いた。重労働の中、命を繋ぐ思いで、おのおのの出身地の民謡など耳なじんだ調べを口ずさんだ。それが「ホレホレ節」になった。「ホレホレ」とはハワイ語でサトウキビの枯れ葉をむしる作業のことで、「ホレホレ」という言葉の口調がよく「ホレホレ節」と名付けられた[1]。つまり「ホレホレ節」はハワイの日本人一世が生み出した労働歌でもあるとされている[2]。
特定の作詞者、作曲者はおらず[2]、「ホレホレ節」の旋律は、ハワイ移民の多かった広島県、山口県、熊本県などの各地方の船頭歌、農民歌、糸つむぎ歌の変奏されたものである[1]。瀬戸内海地方の櫓漕ぎ歌の一つである広島県呉市に伝わる「呉節」に同一の歌詞があるともいわれる[3]。
「ホレホレ節」には、ゆったりと哀愁を帯びた"耕地バージョン"と、テンポが早くリズムの軽快な"お座敷バージョン"があり、砂糖耕地で歌われたものが"耕地バージョン"。"お座敷バージョン"は、日本人労働者が町に出て自営業などを営み、日本人町が発達した1890年頃から、町の料亭のお座敷で芸者が歌い出したバージョンで、三味線付きで歌われ、調子や合いの手が入る[1][2]。
"お座敷バージョン"は、1967年に民謡歌手の佐藤松子によって日本でキングレコードから発売された[1][2]。全国の珍しい民謡を歌うという企画の一環で、プレス、売り上げ枚数の記録はないといわれる[1]。
脚注
編集参考文献・ウェブサイト
編集- 春山陽一 (2008年9月27日). “うたの旅人 移民1世の思い伝える 「ホレホレ節」”. 朝日新聞土曜版 be on Saturday (朝日新聞社)
- ハワイ日系人の民謡 ホレホレ節 – 立命館大学アート・リサーチセンター/アメリカンフォークソング資料保存プロジェクト
- 篠田左多江 ホレホレ節にみるハワイ日本人移民の生活 – 東京家政大学博物館紀要