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ボロカン(モンゴル語: Boloqan、? - 1297年)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、マングト部の出身。漢字表記は『元史』では博羅歓(bóluōhuān)と表記される。また、ボロゴン(Boloγon)と表記されることもある。

概要編集

ボロカンの曾祖父はチンギス・カンに仕えてその側近となったマングト部族長クイルダルで、クイルダルの息子ジャムカの孫ソルカドゥを父とする。マングト部当主の地位(郡王位)はジャムカの兄モンケ・カルジャの家系に受け継がれており、ボロカンはクイルダル家の中でも傍系の生まれであった。マングト部も含む「左手の五投下」や諸王は各々が独自のウルスを有しており、その統治のため各自でジャルグチ(断事官)を置いていたが、ボロカンはその優秀さから僅か16歳にしてマングト部のジャルグチに抜擢された。

1260年からは帝位継承戦争にクビライ派として従軍し、武功挙げてクビライから馬40匹を与えられた。その後、李璮の乱が勃発すると、ボロカンはマングト兵を率いて済南を包囲し、叛乱鎮圧に尽力した。1271年、クビライの皇子の一人フゲチ雲南で毒殺される事件が起こると、事態の収拾と事件の首謀者の処分のため雲南に派遣された。雲南に到着する直前、フゲチを毒殺した宝合丁の配下の者が出迎えたが、ボロカンは宝合丁が現地兵を手なずけていることを考慮してその場では真意を明かさず友好的に接し、雲南に到着した所で油断をつき宝合丁を捕縛・処刑した。この功績によってボロカンの地位は更に上昇し、マングト部に関わることは事の重要性に関わらずボロカンが統べるようになったという[1]

雲南からの帰還後は南宋遠征に従軍し、ボロカン率いる部隊は淮東一帯を転戦した。また、1276年シリギの乱に呼応してコンギラト部のジルワダイ応昌で叛乱を起こすと、ボロカンは江南から急ぎ北上して叛乱鎮圧に尽力した。また、ナヤン・カダアンの乱においても、ボロカンは一軍を率いて叛乱鎮圧に活躍した[2]

1294年、クビライの死後にテムルが即位すると引き続きこれに仕え、1297年にはカイドゥ・ウルスから投降してきたヨブクルらを許し厚遇することで他の者の投降を誘うよう進言している。その後間もなくしてボロカンは63歳で亡くなった[3]

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「博羅歓、畏答児幼子蘸木曷之孫、瑣魯火都之子也。時諸侯王及十功臣各有断事官、博羅歓年十六、為本部断事官。従世祖討阿里不哥、数有功、帝喜而賜馬四十匹、金幣称之。中統三年、李璮叛。命帥忙兀一軍団済南、分兵掠益都・莱州、悉平之。詔録燕南獄、讞決明允、賜衣一襲。皇子雲南王忽哥赤為其省臣宝合丁毒死、事覚、中書択可治其獄者四人、奏上、皆不称旨。丞相線真以博羅歓聞、帝可其奏。博羅歓辞曰『臣不敢愛死、第年少不知書、恐誤事耳』。帝乃以吏部尚書別帖木児輔其行。未至雲南、宝合丁密以金六籯迎饋、祈勿究其事。博羅歓慮其握兵僥外、拒之恐致変、陽諾曰『吾橐不能容、可且持帰、待我取之』。博羅歓至、則竟其獄、誅毒王者、而帰其金於省。陛見、帝顧謂線真曰『卿挙得其人矣』。賜黄金五十両、詔忙兀事無大小、悉統於博羅歓。授昭勇大将軍・右衛親軍都指揮使、大都則専右衛、上都則兼三衛」
  2. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「会伐宋、授金吾衛上将軍・中書右丞。詔分大軍為二、右軍受伯顔・阿朮節度、左軍受博羅歓節度。俄兼淮東都元帥、罷山東経略司、而以其軍悉隸焉。遂軍於下邳、召将佐謀曰『清河城小而固、与昭信・淮安・泗州為掎角、猝未易抜。海州・東海・石秋、遠在数百里之外、必不厳備。吾頓大兵為疑兵、以軽騎倍道襲之、其守将可擒也』。師至、三城果皆下、清河亦降。宋主以国内附、而淮東諸城猶為之守。詔博羅歓進軍、抜淮安南堡、戦白馬湖及宝応、掠高郵、自西小河入漕河、拠湾頭、断通・泰援兵、遂下揚州、淮東平。益封桂陽・徳慶二万一千戸。十四年、討叛臣只里斡台於応昌、平之。賜玉帯文綺、与博羅歓同署枢密院事、拜中書右丞、行省北京。未幾、召還。時江南新附、尚多反側、詔募民能従大軍進討者、使自為一軍、聽節度於其長、而毋役於他軍、制命符節、皆与正同。会博羅歓寝疾、乃附枢密董文忠奏曰『今疆土浸広、勝兵百万、指揮可集、何假此無藉之徒。彼一踐南土、則掠人貨財、俘人妻孥、仇怨益滋、而叛者将愈衆矣』。奏上、召輿疾賜坐、与語、帝大悟、遂可其奏。而常徳入訴唐兀一軍残暴其境内、敕斬以徇。凡所募軍皆罷。十六年、以哈剌斯・博羅思・斡羅罕諸部不相統、命博羅歓監之。十八年、以中書右丞行省甘粛。二十年、拜御史大夫、行御史台事、以疾帰。諸王乃顔叛、帝将親征。博羅歓諫曰『昔太祖分封東諸侯、其地与戸、臣皆知之、以二十為率、乃顔得其九、忙兀・兀魯・札剌児・弘吉剌・亦其烈思五諸侯得其十一、惟征五諸侯兵、自足當之、何至上煩乗輿哉?臣疾且愈、請事東征』。帝乃賜鎧甲弓矢鞍勒、命督五諸侯兵、与乃顔戦、敗之。其党塔不帯以兵来拒、会久雨、軍乏食、諸将欲退。博羅歓曰『今両陣相對、豈容先動』。俄塔不帯引兵退。博羅歓以其師乗之、転戦二日、身中三矢、大破之、斬其駙馬忽倫。適太師月魯那演大軍来会、遂平乃顔、擒塔不帯。既而其党哈丹復叛、詔与諸侯王乃馬帯討之。哈丹遊騎猝至、博羅歓従三騎返走、抵絶澗、可二丈許、追騎垂及、博羅歓策其馬一躍而過、三従騎皆歿、人以為有神助云。哈丹死、斬其子老的於陣。往返凡四歳。凱旋、俘哈丹二妃以献、敕以一賜乃馬帯、一賜博羅歓。陳其金銀器於延春閣、上召諸侯王将帥分賜之。博羅歓辞、帝曰『卿可謂能譲』。乃賜金銀器五百両以旌之」
  3. ^ 『元史』巻121列伝8博羅歓伝,「河南宣慰改行中書省、拜平章政事、有詔括馬毋及勲臣之家。博羅歓曰『吾馬成群、所治地方三千里、不先出馬、何以為吏民之倡』。乃先入善馬十有八。汴南諸州、漭為巨浸、博羅歓躬行決口、督有司繕完之。三十一年、成宗立、遷陝西行中書省平章政事。未行、留鎮河南。入朝、請以泰安州所入五戸絲四千斤易内庫繒帛、分給忙兀一軍。帝為敕遞車送軍中、賜以銀百五十両。陛辞、帝諭之曰『卿今白須、世祖徳言、實多聞之、宜加慎護』。因以世祖所佩弓矢鞶帯賜之。有頃、近臣奏『伐宋時、右軍分属伯顔・阿朮、左軍分属博羅歓。今伯顔・阿朮皆受分地、而博羅歓未及、惟帝裁之』。帝曰『何久不言、豈彼恥自請耶』。乃益封高郵五百戸。大徳元年、叛王薬木忽児・兀魯速不花来帰。博羅歓聞之、遣使馳奏曰『諸王之叛、皆由其父、此輩幼弱、無所与知。今茲来帰、宜棄其前悪、以勧未至』。帝深以為然、賜金鞍勒、命以平章政事行省湖広。会並福建行省入江浙、拜光禄大夫・上柱国・江浙等処行中書省平章政事。居歳餘、卒、年六十三。博羅歓勇有智略、戦常以身先之、所獲財物悉与将士、故得其死力。平居常以国事為憂、聞変即請行、至終其事乃止。其忠義蓋天性然也。累贈推忠宣力賛運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、加封泰安王、謚武穆」

参考文献編集

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻121列伝8博羅歓伝