ミラノのドゥオーモ

ミラノ大聖堂

座標: 北緯45度27分51秒 東経9度11分29秒 / 北緯45.46417度 東経9.19139度 / 45.46417; 9.19139

ミラノのドゥオーモ (イタリア語:Duomo di Milano、ドゥオーモ・ディ・ミラーノ) は、ロンバルディア州ミラノの象徴である。都市の中心の同名のドゥオーモ広場に位置し、聖母マリアに献納されているドゥオーモである。 ミラノのドゥオーモは500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区を統括する首都大司教司教座聖堂であり、その大司教は2011年からAngelo Scola アンジェロ・スコラ枢機卿(1941年生まれ)が務めている。

地図
地図
ミラノ大聖堂外観
ミラノ大聖堂内部短軸方向
ミラノ大聖堂内部長軸方向

このドゥオーモ広場の北にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアがあり、そのまま ミラノスカラ広場(スカラ座)へ通じている。

歴史 編集

ドゥオーモの最初の石は1386年に大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノの領主 ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求により、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に置かれた。

ドゥオーモのティブリオ(主尖塔、十字型通路の交差部)は、1480代まで放置されていて数人の建築家が設計に失敗し、その後の建設コンペにはレオナルド・ダ・ヴィンチが案を出して参加し、ブラマンテが案をまとめる役を行っている。レオナルドは四本の柱をメインとして12本の柱に重荷を分散させる案を出す(模型を作り、実際手稿にも思索過程が残っている。またブラマンテも示唆していた)が採用されず、最終的にマルティーニがそれを生かした上での結論を出す。[1]


宗教改革による中断を経て最初の石が置かれてから約500年後の1813年に、ミラノ公国を征服したナポレオン・ボナパルトの命令により、フランスの資金で完成させた。 19世紀を通じて、尖塔と新しいステンドグラスと交換などの全ての装飾が仕上げられた。

第二次世界大戦中の1943年にミラノは爆撃を受けたが、この建物は連合国側の判断で爆撃を逃れた。そして大戦が終わってすぐ、ドゥオーモは大部分を修復されると共に、木の扉を青銅製に取り替えられた。

ジュゼッペ・ベルティーニカルロ・バッツィは、ミラノ大聖堂のファサードを飾る芸術的なステンドグラスの制作に協力し、いくつかの内部も制作しました。これらの作品を通過する光のおかげで、ミラノ大聖堂は独特の雰囲気を持ち、様々な色調や色彩が融合して魅力的な視覚的体験を創り出します。

建築と美術 編集

 
主尖塔

ミラノのドゥオーモは世界最大級のゴシック建築であり、全長158m、幅92m、高さ108mの威容を誇る。5世紀もの歳月をかけて多くの芸術家によって完成された。階段またはエレベータによって聖堂の上に登ることができる。ジュゼッペ・アルチンボルドは、ステンドグラスのうち、〈ロトと娘たち〉や〈アレクサンドリアの聖カタリナの生涯〉などのデザインに携わっている[2]

内装 編集

ドゥオーモの体積はフランスボーヴェ大聖堂に次いで世界で2番目で、広さもバチカンサン・ピエトロ大聖堂に次いで2番目である。

外観 編集

ドゥオーモには135本の尖塔があり尖塔の天辺にはひとつひとつに聖人が立っている[3]。一番高い位置に金のマリア像が輝いていて、昔はこのマリア像より高い位置に建物を建ててはいけないとされた。


ギャラリー 編集

脚注 編集

  1. ^ 長尾重武 (1994.8). 建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ. 中央公論社 
  2. ^ 芸術新潮』2017年7月号、新潮社、 35 - 36頁。
  3. ^ 船本弘毅『知識ゼロからの教会入門』幻冬舎、2015年、113頁。ISBN 978-4-344-90293-0 
  4. ^ ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『若者のすべて』でドゥオーモの屋上で、絶望的になって走るアニー・ジラルドアラン・ドロン が追いかけるシーンが有名である。

外部リンク 編集