アラン・ドロン

フランスの元俳優 (1935-)

アラン・ドロン(Alain Delon, 1935年11月8日 - )は、フランスの元映画俳優。その類稀な美貌から1960年代から1970年代にかけて、世紀の二枚目として人気を博した。ドロンは芸術映画から娯楽映画まで、数多くの作品に出演している。

Alain Delon
アラン・ドロン
アラン・ドロン
1959年
本名 Alain Fabien Maurice Marcel Delon
生年月日 (1935-11-08) 1935年11月8日(88歳)
出生地 フランスの旗 フランス共和国
オー=ド=セーヌ県ソー
国籍 フランスの旗 フランス
スイスの旗 スイス
身長 178cm
職業 俳優
ジャンル 映画
活動期間 1957年 - 2017年
主な作品
太陽がいっぱい』(1960年)
若者のすべて』(1960年)
太陽はひとりぼっち』(1962年)
山猫』(1963年)
地下室のメロディー』(1963年)
冒険者たち』(1967年)
サムライ』(1967年)
さらば友よ』(1968年)
ボルサリーノ』(1970年)
レッド・サン』(1971年)
 
受賞
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール・ドヌール
2019年 映画、演劇両界における長年の功績に対して
ベルリン国際映画祭
金熊名誉賞
1995年 映画界、演劇界への長年に渡る貢献に対して
セザール賞
作品賞
1976年パリの灯は遠く
主演男優賞
1984年真夜中のミラージュ
その他の賞
モスクワ国際映画祭
金賞
1981年テヘラン 43
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来歴 編集

1935年11月8日パリ郊外のセーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。

4歳で両親が離婚し[1] 母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生まれた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。さらに実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。家庭不和による愛情不足のため、彼は女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とした。ドロンはその後14歳より食品店で働き始めた。

やがてドロンはフランス海軍へ志願。未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への不信感を持った。17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。1955年休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。その後、さまざまな職業を転々とするが、職業経験は後の俳優人生にプラスに働いた。

1957年の夏、女優のブリジット・オベール英語版から「カンヌ映画祭が開催されるから歩いてみたら。あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれない」と言われた。それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、カンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの有名エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。その3日後にローマチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックスクリーンテスト英語版を受け合格し、アメリカ合衆国での成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。

1959年、コメディ映画『お嬢さん、お手やわらかに!』がフランスで大ヒットした[2]。同年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。

1960年、ドロンはパトリシア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』に主演した[3]ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演した。その後も『シシリアン』『冒険者たち』『さらば友よ』『暗黒街のふたり』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディー』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。『暗殺者のメロディ』ではレフ・トロツキーを殺害する男を演じた。ジョゼ・ジョバンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがあるドイツ人モデル歌手ニコとの関係も知られている。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。

ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(本名はフランシーヌ・カノヴァのちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリーはモロッコカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国ビバリーヒルズに滞在。いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立った。ナタリー・ドロンは後に映画『個人教授』に出演した。1966年フランスへ帰国。映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚。

その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンフランス語版と出会う。彼女とは籍は入れず、アヌーシュカ英語版アラン・ファビアンフランス語版の2子をもうけるが、2002年に別れた。

引退 編集

2017年5月9日、今後出演する1本ずつの映画と舞台を最後に、俳優業から引退するとの意向を示した[4]。2018年には、ジュリエット・ビノシュ共演、パトリス・ルコント監督の新作映画に主演する予定だったが、2018年11月にフランスのメディアはこのプロジェクトがキャンセルされたことを発表した。中止の具体的な理由は明かされていない。2019年5月19日、第72回カンヌ国際映画祭でドロンに対し、映画界への長年の功績をたたえて名誉パルム・ドールが贈られた[5]

2019年7月に脳卒中を発症しスイスで療養していると伝えられた[6]。スイスの病院では認知機能検査を5度受けたがすべてパスできず、しかし異母妹がそのことを他の兄弟に伝えなかったため警察に届け出るという騒動に発展した[7]。退院後はフランスのロワレ県ドゥシー英語版にある自宅で過ごしており、2024年1月にはドロンが自らの衰えに耐えきれない状況にあることを息子のアントニーがメディアに明かしている[7]。同年2月には裁判所の指示を受け自宅を訪れた担当者が拳銃を発見し、通報を受けた警察当局は所持許可のない拳銃72丁を押収したほか、3000発以上の弾薬や射撃場も発見した[8]

ギャラリー 編集

殺人事件 編集

1968年10月、ヴェルサイユ近郊エランクール町の公衆ゴミ捨て場から射殺死体が発見される。捜査の結果、同年1月までドロンのボディガードを務めていたステファン・マルコヴィッチと判明。マルコヴィッチはドロンに解雇されたのち、親族に「もし自分が殺されたらアラン・ドロンとフランソワ・マルカントーニの仕業だ」との手紙を送っていた。さらに、マルコヴィッチが当時のドロンの妻であったナタリー・ドロンと不倫関係にあったことが判明[注 1]。このため、捜査当局は翌69年1月にドロンと親しい関係であったマフィアのマルカントーニを実行犯として逮捕。更にドロンを重要参考人として召喚する。しかし、捜査の過程で前の首相で同年の大統領選の有力候補であったジョルジュ・ポンピドゥーの名前まで出てきたことから事態は混迷を極め、マンカントーニは釈放されドロンは不起訴となり捜査はいったん中止となる。ポンピドゥーは同年6月に大統領選に勝利した。その後、70年4月にはドロンが大統領に就任したポンピドゥー宛に公開嘆願状を出すなど抵抗をつづけ、結局容疑者不詳のまま迷宮入りとなった[9]

エピソード 編集

  • 1963年4月1日から10日にかけて第3回「フランス映画祭」が東京都千代田区の東商ホールで開催された。ジャン=ガブリエル・アルビコッコの『金色の眼の女』と『アメリカのねずみ』、『突然炎のごとく』『ミス・アメリカ パリを駆ける』『シベールの日曜日』『女はコワイです』『不滅の女』『地下室のメロディー』『地獄の決死隊』の計9本の長編と、短編映画『ふくろうの川』が上映された[10]。ドロン、アレクサンドラ・スチュワルトフランソワ・トリュフォーマリー・ラフォレセルジュ・ブールギニョンアルベール・ラモリス、フランソワーズ・ブリオンらは映画祭に参加するため3月28日に来日した[11][12][13]。ドロンは初来日であった。
  • 1963年4月と1964年6月、フジテレビスター千一夜』に出演。同6月13日にはNHK夢であいましょう』に出演。映像は現存しないが、司会を務めたデザイナーの中嶋弘子と番組セット内で撮ったカラー写真が現存する。
  • 1980年代には、パリ旅行のメインとしてドロンと一緒のディナーを楽しめるという団体ツアーも企画され、日本から50,000名が参加し大きな話題を呈した。2010年には生誕75周年を記念して、「アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭」が東京や京都で開催された[14]
  • 日本では美男俳優の代名詞と言えるほど人気の高い二枚目スターであるが、娯楽大作中心ではなく、社会派やアート志向の作品も多い出演歴でわかるように、フランスや欧米諸国では大衆的な二枚目スターとは異なる評価を受けている。
  • 1987年、モロッコでの15年間の投獄の末、脱走したマリカ・ウフキルは逃走中に自分たちの事実を伝えるため政治家やアーティストに20通ばかりの手紙を送ったが、返事があったのはアラン・ドロンただ一人だった。モロッコと関係のあるアラン・ドロンは弁護士を通じて「政治的立場をとるつもりはないが、ウフキルたちに友情を伝えてくれと言い、物資面の援助や裁判費用も払う用意がある」と伝え、ウフキルはこの厚意に心底感動したと語っている。
  • 1993年スイスで行われた女優オードリー・ヘプバーンの葬儀に参列。それまで交流があったことは一切報じられておらず、また、日本では長年人気投票の外国男優・外国女優部門の1位を獲得してきた人気俳優同士だった。彼は「僕は彼女を尊敬していた」と交流を語った。
  • 1964年東京オリンピックのメインスタジアム(新宿区霞ヶ丘町)の落成式に出席し併せて国立代々木競技場を訪問した。また東京モノレールの開業前に昭和島車両基地を訪れ、そこで試運転車両に乗車した[15]
  • ドロンと岸田森は、映画『友よ静かに死ね』の来日イベントで共演している[16]

出演 編集

公開年 邦題
原題
役名 備考
1957年 女が事件にからむ時
Quand la femme s'en mêle
ジョー
黙って抱いて
Sois belle et tais-toi
Loulou
1958年 恋ひとすじに
Christine
フランツ・ロブハイナー
1959年 お嬢さん、お手やわらかに!
Faibles Femmes
ジュリアン・フェナル
学生たちの道
Le Chemin des écoliers
Antoine Michaud
1960年 太陽がいっぱい
Plein soleil
トム・リプレー
若者のすべて
Rocco e i suoi fratelli
ロッコ・パロンディ
1961年 生きる歓び
Che gioia vivere
Ulysse Cecconato
素晴らしき恋人たち
Amours célèbres
アルバート王子
1962年 太陽はひとりぼっち
L'Eclisse
ピエロ
フランス式十戒
Le Diable et les dix commandements
ピエール
1963年 地下室のメロディー
Mélodie en sous-sol
フランシス・ヴェルロット
山猫
Il Gattopardo
タンクレディ
1964年 黒いチューリップ
La Tulipe noire
ジュリアン/ギヨーム・ド・サンプルー伯爵(二役)
危険がいっぱい
Les Félins
マルク
さすらいの狼
L'Insoumis
トーマ
黄色いロールス・ロイス
The Yellow Rolls-Royce
ステファノ
1965年 泥棒を消せ
Once a Thief
エディ
1966年 名誉と栄光のためでなく
Lost Command
ピエール・エスクラビエ
パリは燃えているか
Paris brûle-t-il?
ジャック・シャバン=デルマス
テキサス
Texas Across the River
ドン・アンドレア・バルダザール
1967年 冒険者たち
Les Aventuriers
マヌー・ボレリー
サムライ
Le Samouraï
ジェフ・コステロ
悪魔のようなあなた
Diaboliquement vôtre
Pierre Lagrange/Georges Campo
1968年 世にも怪奇な物語
Histoires Extraordinaires
ウィリアム・ウィルソン
あの胸にもういちど
La Motocyclette
ダニエル・コロニー
さらば友よ
Adieu l'ami
ディノ・バラン
太陽が知っている
La Piscine
ジャン=ポール
1969年 ジェフ
Jeff
Laurent 兼製作
シシリアン
Le Clan des Siciliens
ロジェ・サルテ
1970年 ボルサリーノ
Borsalino
ロッコ・シフレディ 兼製作
仁義
Le Cercle rouge
コレー
栗色のマッドレー
Madly
ジュリアン
1971年 もういちど愛して
Doucement les Basses
シモン・メデュー
レッド・サン
Soleil Rouge
ゴーシュ
帰らざる夜明け
La Veuve Couderc
ジャン
1972年 暗殺者のメロディ
The Assassination of Trotsky
フランク・ジャクソン
高校教師
La Prima notte di quiete
ダニエレ・ドミニチ
リスボン特急
Un flic
エドゥアール・コールマン
ショック療法
Traitement de choc
Docteur Devilers
1973年 スコルピオ
Scorpio
ジャン・ローリエ 通称スコルピオ
燃えつきた納屋
Les Granges brulées
Pierre Larcher
ビッグ・ガン
Les Grands Fusils
トニー・アルゼンタ
暗黒街のふたり
Deux hommes dans la ville
ジーノ・ストラブリッジ
1974年 個人生活
La Race des 'seigneurs'
ジュリアン・ダンディーユ
愛人関係
Les Seins de glace
マルク・リルソン
ボルサリーノ2
Borsalino & Co.
ロッコ・シフレディ 兼製作
1975年 アラン・ドロンのゾロ
Zorro
ゾロ / ディエゴ
フリック・ストーリー
Flic Story
ロジェ・ボルニッシュ 兼製作
ル・ジタン
Le Gitan
ユーゴ・セナール 通称ジダン 兼製作
1976年 パリの灯は遠く
Monsieur Klein
ロベール・クライン
ブーメランのように
Comme un boomerang
ジャック・バトキン 兼製作
1977年 友よ静かに死ね
Le Gang
ロベール 兼製作
プレステージ
L'Homme pressé
ピエール 兼製作
チェイサー
Mort d'un pourri
Xavier 'Xav' Maréchal
1978年 ナイトヒート
Attention, les enfants regardent
1979年 エアポート'80
The Concorde ... Airport '79
ポール・メトラン機長
未知の戦場/ヨーロッパ198X
Le toubib
Jean-Marie Desprée
1980年 ポーカー・フェイス/アラン・ドロン・ウィズ・ジャック・ドレー
3 hommes à abattre
ミシェル 脚本/出演/製作
1981年 テヘラン 43
Tegeran-43
Georges Roche
危険なささやき
Pour la peau d'un flic
シュカス 監督/脚本/出演/製作
1982年 最後の標的
Le choc
マルタン・テリエ 兼脚本
1983年
Le battant
ジャック 監督/脚本/出演/製作
1984年 スワンの恋
Un amour de Swann
Baron de Charlus
真夜中のミラージュ
Notre histoire
ロベルト セザール賞 主演男優賞 受賞
1985年 復讐のビッグガン
Parole de flic
ダニエル・プラット 兼 製作
1986年 デーモン・ワールド
Le passage
ジャン・ディアス
1988年 アラン・ドロン/私刑警察
Ne réveillez pas un flic qui dort
Eugéne Grindel 兼脚本
1990年 ヌーヴェルヴァーグ
Nouvelle Vague
ロジェ・レノックス / リシャール・レノックス
1992年 カサノヴァ最後の恋
Le Retour de Casanova
カサノヴァ 兼製作総指揮
1995年 百一夜
Les Cent et une nuits de Simon Cinéma
アラン・ドロン
1998年 ハーフ・ア・チャンス
Une chance sur deux
ジュリアン
2002年 アラン・ドロンの 刑事物語
Fabio Montale
ファビオ・モンタル テレビ・ミニシリーズ
2003年 - 2004年 アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ
Frank Riva
フランク・リーヴァ テレビシリーズ
2008年 アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘
ASTERIX AUX JEUX OLYMPIQUES
ユリウス・カエサル

ディスコグラフィ 編集

  • レティシア(冒険者たち、挿入歌)
  • 甘い囁き - ダリダとアラン・ドロン(1973年)

受賞歴 編集

ゴールデングローブ賞
1964年 有望若手男優賞 『山猫』 - ノミネート
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
1972年 特別賞 - 受賞
セザール賞
1977年 最優秀男優賞 『パリの灯は遠く』 - ノミネート
1978年 最優秀男優賞 『チェイサー』 - ノミネート
1985年 最優秀男優賞 『真夜中のミラージュ』 - 受賞
ベルリン国際映画祭
1995年 名誉金熊賞 - 受賞

第72回カンヌ国際映画祭で現地2019年5月19日夜、映画への長年の貢献をたたえて名誉パルムドールが贈られた。

日本語吹き替え 編集

専属声優(フィックス 編集

野沢那智 (ドロン本人と対面経験あり)
1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当[注 2]。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐(後述)などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。ドロンの低い声とは対照的に野沢の声質は高音であるが、このことについては「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う(重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わなくなってしまう)」として日本語とフランス語の聴感の違いを感じさせる回答を野沢は述べており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録することを心掛けていたことを明かしている[18]。当初はドロンの熱狂的ファンからの「なんで日本語にしたんだ」といった理不尽なクレームの電話[注 3]に悩まされ、やりづらかったと言い、度々難色を示すほどの苦労[19]もありながらも、幼い頃に親を失った共通点などからドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから、晩年には「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが(持ち役の中でも)一番やりやすいです」と野沢は答えている[18]。過去に戸田奈津子の仲介でドロン本人と初めて対面した際には「もう少し上手な人に吹き替えてもらいたい」と言われ、当初はお墨付きには至らなかったものの、80年代に執り行われたドロンと会食ができるパリ観光ツアーでは野沢がドロンと同行しており、その後の両者の関係は良好であったという[20]東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にもドロンのパートを担当する形で参加している。
主な担当作品については以下のとおり。テレビ版を含めればほぼすべてだが、ソフト収録作品を列挙する。
など、計20作品がソフトに収録されている。

その他の担当声優 編集

堀勝之祐
1969年の『木曜洋画劇場』で放映された『若者のすべて』以後、1970年代初期に多く担当。かつての担当声優であり、現在はリニューアルなどで野沢ドロンになっている作品の多くは当初、堀が吹き替えていた。堀はドロンが抑えた演技をしている作品を担当することが多かったと語り、「彼(ドロン)の演技にふっとのれないことがあった。彼の癖とかも入ってくるんだろうが、割合簡単にのれそうでいて意外と拒否されちゃうところがある。そういうところで僕の場合、演技を作って逃げる事もありました」と告白しており、後に専属となる野沢が担当した作品を観た際には「野沢さんの場合はぴったり合っているようだなあ」と感じたという[19]。野沢の没後である2018年9月22日にBSプレミアムにて放送された番組『アラン・ドロン ラストメッセージ~映画 人生 そして孤独~』においては朗読部分を担当、『さらば友よ』(TBS版)以来32年ぶりにドロンに扮した。『太陽がいっぱい』のように堀は準主役の別の役の吹替えを行っているものもある。
主な担当作品は『悪魔のようなあなた』、『山猫』など、計5作品がソフトに収録されている。
さらば友よ』は、KADOKAWAから2018年5月25日に野沢(フジテレビ版)と堀(TBS版)の上記の両者の吹替えを収録したブルーレイが発売されている(思い出の復刻版ブルーレイに同梱のDVDには野沢版のみ収録)。
久富惟晴
主に70年代後期の日本テレビ系列の洋画劇場で担当。主な担当作品は『ボルサリーノ1・2』、『栗色のマッドレー』など、同局制作の吹き替えにおける専属として担当した。ソフト収録作品には『パリは燃えているか』、『リスボン特急』、『ル・ジタン』がある。

このほか、山田康雄広川太一郎富山敬松橋登伊武雅刀石立鉄男横内正中野誠也井上真樹夫井上和彦山寺宏一などが声を当てた作品も存在する。

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ さらに、ドロン自身もマルコヴィッチと関係があったとして「三角関係」と報じられた。
  2. ^ ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[17]。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。
  3. ^ そのようなクレームが来た際には「字幕では、年寄りは見づらいでしょう。今の方法が完璧とは思いませんが、できるだけ大勢の方に楽しんでもらいたいので吹替にしているんです。もっと深いところで楽しみたいときは、映画館へ足を運んでください」と言うことにしていたとのこと。

出典 編集

  1. ^ Alain Delon Biography (1935-)
  2. ^ Movie box office information at Box Office Story
  3. ^ “[Interview with Patricia Highsmith Patricia Highsmith interview]”. 2020年4月22日閲覧。
  4. ^ “アラン・ドロン、俳優引退へ フランスが誇る美男の代名詞”. AFPBB News. フランス通信社. (2017年5月10日). https://www.afpbb.com/articles/-/3127715 2024年1月6日閲覧。 
  5. ^ “アラン・ドロン83歳、名誉パルムドール受賞に涙:第72回カンヌ国際映画祭|シネマトゥデイ”. シネマトゥデイ. (2019年5月26日). https://www.cinematoday.jp/news/N0108896 2022年1月2日閲覧。 
  6. ^ “仏俳優アラン・ドロンさんが脳卒中、現在はスイスで療養”. AFPBB News. (2019年8月9日). https://www.afpbb.com/articles/-/3239282 2022年1月2日閲覧。 
  7. ^ a b “アラン・ドロンさん、自身の「衰え」直視できず 息子主張”. AFPBB News. フランス通信社. (2024年1月5日). https://www.afpbb.com/articles/-/3499003 2024年1月6日閲覧。 
  8. ^ “ドロンさん宅から銃72丁 所持の許可なし―仏検察”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2024年2月28日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2024022800145&g=int 2024年2月28日閲覧。 
  9. ^ その存在自体が、スキャンダラス…。 「アラン・ドロンの時代」の問題作 『ショック療法』
  10. ^ 映画評論』1963年5月号。
  11. ^ 『映画ストーリー』1963年6月号、雄鶏社、「ドロンとラフォレがやってきた!」。
  12. ^ 『映画情報』1963年6月号、国際情報社、「フランス映画祭にぎわう」。
  13. ^ アラン・ドロン 俳優引退へ “最高の美男”の軌跡”. 毎日新聞 (2017年5月10日). 2018年3月24日閲覧。
  14. ^ アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭
  15. ^ 光文社「女性自身」2014年10月14日号(第57巻第37号)100頁 雑誌20302-10/14
  16. ^ 武井崇『岸田森 夭逝の天才俳優・全記録』 洋泉社、2017年。ISBN 978-4-8003-1222-8。同書の215pと589p。
  17. ^ テレビ朝日『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』全国朝日放送、1986年。ISBN 4881310798 
  18. ^ a b 野沢那智の声優道 第2回 声優になるには1〜声優の前に、俳優であれ!〜(Wayback Machineによるアーカイブ)
  19. ^ a b 阿部邦雄『声のスターのすべて TV洋画の人気者』近代映画社、1978年5月。全国書誌番号:79023322 
  20. ^ アラン・ドロン 生誕75周年記念映画祭 公式パンフレットより

外部リンク 編集