アラン・ドロン
アラン・ドロン(Alain Delon, 1935年11月8日 - )は、フランスの元映画俳優。1960年代から1970年代にかけて、世紀の二枚目として人気を博した。ドロンは芸術映画から娯楽映画まで、数多くの作品に出演している。
Alain Delon アラン・ドロン | |||||||||||||||||||
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![]() 1961年撮影 | |||||||||||||||||||
本名 | Alain Fabien Maurice Marcel Delon | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1935年11月8日(87歳) | ||||||||||||||||||
出生地 |
![]() オー=ド=セーヌ県ソー | ||||||||||||||||||
国籍 |
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身長 | 178cm | ||||||||||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1957年 - 2017年 | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
『太陽がいっぱい』(1960年) 『若者のすべて』(1960年) 『太陽はひとりぼっち』(1962年) 『山猫』(1963年) 『地下室のメロディー』(1963年) 『冒険者たち』(1967年) 『サムライ』(1967年) 『さらば友よ』(1968年) 『ボルサリーノ』(1970年) 『レッド・サン』(1971年) | |||||||||||||||||||
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来歴編集
1935年11月8日パリ郊外のセーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。
4歳で両親が離婚し[1] 母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生まれた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。さらに実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。家庭不和による愛情不足のため、彼は女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とした。ドロンはその後14歳より食品店で働き始めた。
やがてドロンはフランス海軍へ志願。未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への不信感を持った。17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。1955年、休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。その後、さまざまな職業を転々とするが、職業経験は後の俳優人生にプラスに働いた。
翌1957年の夏、女優のブリジット・オベールから「カンヌで映画祭が開催されるから歩いてみたら。あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれない」と言われた。それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、カンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの有名エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。その3日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受け合格し、アメリカ合衆国での成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。
1959年、コメディ映画『ウィメン・アー・ウィーク』(英語タイトル)がフランスで大ヒットした[2]。同年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。1960年、ドロンはパトリシア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』に主演した[3]。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演した。その後も『シシリアン』『冒険者たち』『さらば友よ』『暗黒街のふたり』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディ』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。他には、ドロンがソ連の革命家・レフ・トロツキーを殺害する殺し屋を演じた『暗殺者のメロディ』という珍品もある。ジョゼ・ジョバンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがあるドイツ人モデル・歌手のニコとの関係も知られている。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。
ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(本名はフランシーヌ・カノヴァのちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリーはモロッコのカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立った。ナタリー・ドロンは後に映画『個人教授』に出演した。1966年フランスへ帰国。映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚。
その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンと出会う。彼女とは籍は入れず、アヌーシュカとアラン・ファビアンの2子をもうけるが、2002年に別れた。
引退編集
2017年5月9日、今後出演する1本ずつの映画と舞台を最後に、引退するとの意向を示した[4]。2018年には、ジュリエット・ビノシュ共演、パトリス・ルコント監督の新作映画に主演する予定だったが、2018年11月、フランスのメディアはこのプロジェクトがキャンセルされたことを発表した。中止の具体的な理由は明かされていない。
2019年5月19日(日本時間20日)、第72回カンヌ国際映画祭で、映画界への長年の功績をたたえて「名誉パルムドール」が贈られた。[5]
エピソード編集
- 1963年(昭和38年)、4月1日から4月10日まで東京・丸の内の東京商工会議所ホールで開催された第3回フランス映画祭(後援は在日フランス大使館ほか)のため初来日。日本のファン達の大歓迎をうけた。他にドロンと共に映画祭に参加したのは、映画監督のフランソワ・トリュフォー、セルジュ・ブールギニョン、女優のマリー・ラフォレ、アレクサンドラ・スチュワルト、フランソワーズ・ブリヨンらであった。
- 1963年4月と1964年(昭和39年)6月、フジテレビ『スター千一夜』に出演。同6月13日にはNHK『夢であいましょう』に出演。映像は現存しないが、司会を務めたデザイナーの中嶋弘子と番組セット内で撮ったカラー写真が現存する。
- 1980年代には、パリ旅行のメインとしてドロンと一緒のディナーを楽しめるという団体ツアーも企画され、日本から50,000名が参加し大きな話題を呈した。2010年には生誕75周年を記念して、「アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭」が東京や京都で開催された[7]。
- 日本では美男俳優の代名詞と言えるほど人気の高い二枚目スターであるが、娯楽大作中心ではなく、社会派やアート志向の作品も多い出演歴でわかるように、フランスや欧米諸国では大衆的な二枚目スターとは異なる評価を受けている。
- 1987年、モロッコでの15年間の投獄の末、脱走したマリカ・ウフキルは逃走中に自分たちの事実を伝えるため政治家やアーティストに20通ばかりの手紙を送ったが、返事があったのはアラン・ドロンただ一人だった。モロッコと関係のあるアラン・ドロンは弁護士を通じて「政治的立場をとるつもりはないが、ウフキルたちに友情を伝えてくれと言い、物資面の援助や裁判費用も払う用意がある」と伝え、ウフキルはこの厚意に心底感動したと語っている。
- 1993年、スイスで行われた女優オードリー・ヘプバーンの葬儀に参列。それまで交流があったことは一切報じられておらず、また、日本では長年人気投票の外国男優・外国女優部門の1位を獲得してきた人気俳優同士だった。彼は「僕は彼女を尊敬していた」と交流を語った。
- 1964年東京オリンピックのメインスタジアム(新宿区霞ヶ丘町)の落成式に出席し併せて国立代々木競技場を訪問した。また東京モノレールの開業前に昭和島車両基地を訪れ、そこで試運転車両に乗車した[8]。
- ドロンと岸田森は、映画『友よ静かに死ね』の来日イベントで共演している[9]。
出演編集
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
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1957年 | 女が事件にからむ時 Quand la femme s'en mêle |
ジョー | |
黙って抱いて Sois belle et tais-toi |
Loulou | ||
1958年 | 恋ひとすじに Christine |
フランツ・ロブハイナー | |
1959年 | お嬢さん、お手やわらかに! Faibles Femmes |
ジュリアン・フェナル | |
学生たちの道 Le Chemin des écoliers |
Antoine Michaud | ||
1960年 | 太陽がいっぱい Plein soleil |
トム・リプレー | |
若者のすべて Rocco e i suoi fratelli |
ロッコ・パロンディ | ||
1961年 | 生きる歓び Che gioia vivere |
Ulysse Cecconato | |
素晴らしき恋人たち Amours célèbres |
アルバート王子 | ||
1962年 | 太陽はひとりぼっち L'Eclisse |
ピエロ | |
フランス式十戒 Le Diable et les dix commandements |
ピエール | ||
1963年 | 地下室のメロディー Mélodie en sous-sol |
フランシス・ヴェルロット | |
山猫 Il Gattopardo |
タンクレディ | ||
1964年 | 黒いチューリップ La Tulipe noire |
ジュリアン/ギヨーム・ド・サンプルー伯爵(二役) | |
危険がいっぱい Les Félins |
マルク | ||
さすらいの狼 L'Insoumis |
トーマ | ||
黄色いロールス・ロイス The Yellow Rolls-Royce |
ステファノ | ||
1965年 | 泥棒を消せ Once a Thief |
エディ | |
1966年 | 名誉と栄光のためでなく Lost Command |
ピエール・エスクラビエ | |
パリは燃えているか Paris brûle-t-il? |
ジャック・シャバン=デルマス | ||
テキサス Texas Across the River |
ドン・アンドレア・バルダザール | ||
1967年 | 冒険者たち Les Aventuriers |
マヌー・ボレリー | |
サムライ Le Samouraï |
ジェフ・コステロ | ||
悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre |
Pierre Lagrange/Georges Campo | ||
1968年 | 世にも怪奇な物語 Histoires Extraordinaires |
ウィリアム・ウィルソン | |
あの胸にもういちど La Motocyclette |
ダニエル・コロニー | ||
さらば友よ Adieu l'ami |
ディノ・バラン | ||
太陽が知っている La Piscine |
ジャン=ポール | ||
1969年 | ジェフ Jeff |
Laurent | 兼製作 |
シシリアン Le Clan des Siciliens |
ロジェ・サルテ | ||
1970年 | ボルサリーノ Borsalino |
ロッコ・シフレディ | 兼製作 |
仁義 Le Cercle rouge |
コレー | ||
栗色のマッドレー Madly |
ジュリアン | ||
1971年 | もういちど愛して Doucement les Basses |
シモン・メデュー | |
レッド・サン Soleil Rouge |
ゴーシュ | ||
帰らざる夜明け La Veuve Couderc |
ジャン | ||
1972年 | 暗殺者のメロディ The Assassination of Trotsky |
フランク・ジャクソン | |
高校教師 La Prima notte di quiete |
ダニエレ・ドミニチ | ||
リスボン特急 Un flic |
エドゥアール・コールマン | ||
ショック療法 Traitement de choc |
Docteur Devilers | ||
1973年 | スコルピオ Scorpio |
ジャン・ローリエ 通称スコルピオ | |
燃えつきた納屋 Les Granges brulées |
Pierre Larcher | ||
ビッグ・ガン Les Grands Fusils |
トニー・アルゼンタ | ||
暗黒街のふたり Deux hommes dans la ville |
ジーノ・ストラブリッジ | ||
1974年 | 個人生活 La Race des 'seigneurs' |
ジュリアン・ダンディーユ | |
愛人関係 Les Seins de glace |
マルク・リルソン | ||
ボルサリーノ2 Borsalino & Co. |
ロッコ・シフレディ | 兼製作 | |
1975年 | アラン・ドロンのゾロ Zorro |
ゾロ / ディエゴ | |
フリック・ストーリー Flic Story |
ロジェ・ボルニッシュ | 兼製作 | |
ル・ジタン Le Gitan |
ユーゴ・セナール 通称ジダン | 兼製作 | |
1976年 | パリの灯は遠く Monsieur Klein |
ロベール・クライン | |
ブーメランのように Comme un boomerang |
ジャック・バトキン | 兼製作 | |
1977年 | 友よ静かに死ね Le Gang |
ロベール | 兼製作 |
プレステージ L'Homme pressé |
ピエール | 兼製作 | |
チェイサー Mort d'un pourri |
Xavier 'Xav' Maréchal | ||
1978年 | ナイトヒート Attention, les enfants regardent |
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1979年 | エアポート'80 The Concorde ... Airport '79 |
ポール・メトラン機長 | |
未知の戦場/ヨーロッパ198X Le toubib |
Jean-Marie Desprée | ||
1980年 | ポーカー・フェイス/アラン・ドロン・ウィズ・ジャック・ドレー 3 hommes à abattre |
ミシェル | 脚本/出演/製作 |
1981年 | テヘラン 43 Tegeran-43 |
Georges Roche | |
危険なささやき Pour la peau d'un flic |
シュカス | 監督/脚本/出演/製作 | |
1982年 | 最後の標的 Le choc |
マルタン・テリエ | 兼脚本 |
1983年 | 鷹 Le battant |
ジャック | 監督/脚本/出演/製作 |
1984年 | スワンの恋 Un amour de Swann |
Baron de Charlus | |
真夜中のミラージュ Notre histoire |
ロベルト | セザール賞 主演男優賞 受賞 | |
1985年 | 復讐のビッグガン Parole de flic |
ダニエル・プラット | 兼 製作 |
1986年 | デーモン・ワールド Le passage |
ジャン・ディアス | |
1988年 | アラン・ドロン/私刑警察 Ne réveillez pas un flic qui dort |
Eugéne Grindel | 兼脚本 |
1990年 | ヌーヴェルヴァーグ Nouvelle Vague |
ロジェ・レノックス / リシャール・レノックス | |
1992年 | カサノヴァ最後の恋 Le Retour de Casanova |
カサノヴァ | 兼製作総指揮 |
1995年 | 百一夜 Les Cent et une nuits de Simon Cinéma |
アラン・ドロン | |
1998年 | ハーフ・ア・チャンス Une chance sur deux |
ジュリアン | |
2002年 | アラン・ドロンの 刑事物語 Fabio Montale |
ファビオ・モンタル | テレビ・ミニシリーズ |
2003年 - 2004年 | アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ Frank Riva |
フランク・リーヴァ | テレビシリーズ |
2008年 | アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘 ASTERIX AUX JEUX OLYMPIQUES |
ユリウス・カエサル |
ディスコグラフィ編集
- レティシア(冒険者たち、挿入歌)
- 甘い囁き - ダリダとアラン・ドロン(1973年)
受賞歴編集
- ゴールデングローブ賞
- 1964年 有望若手男優賞 『山猫』 - ノミネート
- ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
- 1972年 特別賞 - 受賞
第72回カンヌ国際映画祭で現地2019年5月19日夜、映画への長年の貢献をたたえて名誉パルムドールが贈られた。
日本語吹き替え編集
主に担当していたのは、以下の三人である。
- 野沢那智 (専属、ドロン本人と対面経験あり)
- 1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当[注 1]。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐(後述)などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。ドロンの低い声とは対照的に野沢の声質は高音であるが、このことについては「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う(重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わなくなってしまう)」として日本語とフランス語の聴感の違いを感じさせる回答を野沢は述べており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録することを心掛けていたことを明かしている[11]。当初はドロンの熱狂的ファンからの「なんで日本語にしたんだ」といった理不尽なクレームの電話[注 2]に悩まされ、やりづらかったと言い、度々難色を示すほどの苦労[12]もありながらも、幼い頃に親を失った共通点などからドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから、晩年には「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが(持ち役の中でも)一番やりやすいです」と野沢は答えている[11]。過去に戸田奈津子の仲介でドロン本人と初めて対面した際には「もう少し上手な人に吹き替えてもらいたい」と言われ、当初はお墨付きには至らなかったものの、80年代に執り行われたドロンと会食ができるパリ観光ツアーでは野沢がドロンと同行しており、その後の両者の関係は良好であったという[13]。東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にもドロンのパートを担当する形で参加している。
- 主な担当作品については以下のとおり。テレビ版を含めればほぼすべてだが、ソフト収録作品を列挙する。
- 『アラン・ドロンのゾロ』
- 『エアポート'80』
- 『お嬢さん、お手やわらかに!』
- 『高校教師』
- 『冒険者たち』
- 『ボルサリーノ』
- 『レッド・サン』
- 『ハーフ・ア・チャンス』
- など、計20作品がソフトに収録されている。
- 堀勝之祐 (かつて代表作を多く担当)
- 1969年の『木曜洋画劇場』で放映された『若者のすべて』以後、1970年代初期に多く担当。現在はリニューアルなどで野沢ドロンになっている作品の多くは当初、堀が吹き替えていた。堀はドロンが抑えた演技をしている作品を担当することが多かったと語り、「彼(ドロン)の演技にふっとのれないことがあった。彼の癖とかも入ってくるんだろうが、割合簡単にのれそうでいて意外と拒否されちゃうところがある。そういうところで僕の場合、演技を作って逃げる事もありました」と告白しており、後に専属となる野沢が担当した作品を観た際には「野沢さんの場合はぴったり合っているようだなあ」と感じたという[12]。野沢の没後である2018年9月22日にBSプレミアムにて放送された番組『アラン・ドロン ラストメッセージ~映画 人生 そして孤独~』においては朗読部分を担当、『さらば友よ』(TBS版)以来32年ぶりにドロンに扮した。『太陽がいっぱい』のように堀は準主役の別の役の吹替えを行っているものもある。
- 主な担当作品は『悪魔のようなあなた』、『山猫』など、計5作品がソフトに収録されている。
『さらば友よ』は、KADOKAWAから2018年5月25日に野沢(フジテレビ版)と堀(TBS版)の上記の両者の吹替えを収録したブルーレイが発売されている(思い出の復刻版ブルーレイに同梱のDVDには野沢版のみ収録)。
- 久富惟晴 (日本テレビでの担当声優)
このほか、山田康雄や広川太一郎、富山敬、松橋登、伊武雅刀、石立鉄男、横内正、中野誠也、井上真樹夫、井上和彦、山寺宏一などが声を当てた作品も存在する。
関連項目編集
出典/脚注編集
注釈編集
- ^ ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[10]。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。
- ^ そのようなクレームが来た際には「字幕では、年寄りは見づらいでしょう。今の方法が完璧とは思いませんが、できるだけ大勢の方に楽しんでもらいたいので吹替にしているんです。もっと深いところで楽しみたいときは、映画館へ足を運んでください」と言うことにしていたとのこと。
- ^ Alain Delon Biography (1935-)
- ^ Movie box office information at Box Office Story
- ^ “[Interview with Patricia Highsmith Patricia Highsmith interview]”. 2020年4月22日閲覧。
- ^ 時事通信 5月10日。
- ^ “アラン・ドロン83歳、名誉パルムドール受賞に涙:第72回カンヌ国際映画祭|シネマトゥデイ”. シネマトゥデイ. (2019年5月26日) 2022年1月2日閲覧。
- ^ “仏俳優アラン・ドロンさんが脳卒中、現在はスイスで療養”. AFPBB News. (2019年8月9日) 2022年1月2日閲覧。
- ^ アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭
- ^ 光文社「女性自身」2014年10月14日号(第57巻第37号)100頁 雑誌20302-10/14
- ^ 武井崇『岸田森 夭逝の天才俳優・全記録』 洋泉社、2017年。ISBN 978-4-8003-1222-8。同書の215pと589p。
- ^ テレビ朝日『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』全国朝日放送、1986年。ISBN 4881310798。
- ^ a b 野沢那智の声優道 第2回 声優になるには1〜声優の前に、俳優であれ!〜(Wayback Machineによるアーカイブ)
- ^ a b 阿部邦雄『声のスターのすべて TV洋画の人気者』近代映画社、1978年5月。全国書誌番号:79023322。
- ^ アラン・ドロン 生誕75周年記念映画祭 公式パンフレットより
外部リンク編集
- アラン・ドロン - allcinema
- アラン・ドロン - KINENOTE
- Alain Delon - IMDb(英語)
- Alain Delon - Discogs
- Le Gitan