モントピリア (軽巡洋艦)

モントピリア (USS Montpelier, CL-57) は、アメリカ海軍軽巡洋艦クリーブランド級軽巡洋艦の3番艦。艦名はバーモント州モントピリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目にあたる。

モントピリア
基本情報
建造所 ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 軽巡洋艦
級名 クリーブランド級
愛称 マイティ・モンティ (Mighty Monty)
ソロモンの伝説 (Legend of the Solomons)
艦歴
起工 1940年12月2日
進水 1942年2月12日
就役 1942年9月9日
退役 1947年1月24日
除籍 1959年3月1日
その後 1960年1月22日、スクラップとして売却
要目
基準排水量 11,744 トン
満載排水量 14,131 トン
全長 610フィート1インチ (185.95 m)
最大幅 66フィート4インチ (20.22 m)
吃水 24フィート6インチ (7.47 m)
主缶 バブコック & ウィルコックス水管ボイラー×4基
主機 GE式ギヤード蒸気タービン×4基
出力 100,000馬力 (75,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 32.5ノット (60.2 km/h)
航続距離 11,000海里 (20,000 km) / 15ノット
乗員 1,255名
兵装
装甲
  • 舷側:3.5–5インチ (89–127 mm)
  • 甲板:2インチ (51 mm)
  • バーベット:6インチ (152 mm)
  • 砲塔:6インチ (152 mm)
  • 司令塔:5インチ (127 mm)
搭載機 SOC-3水上機×4機
カタパルト×2基)
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ソロモン諸島の戦いにおいて第39任務部隊の旗艦としてアーロン・S・メリル少将の座乗艦を務め、アイアンボトム海峡を初めとするソロモン海域、特に “ザ・スロット” と呼ばれたニュージョージア海峡において武勲をあげつつ艦を一隻も失っていない、日米双方で唯一の艦隊の旗艦として「ソロモンの伝説 ("Legend of the Solomons") 」と呼ばれた。

艦歴

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「モントピリア」は1940年12月2日にニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で起工した。1942年2月12日にウィリアム・F・キャリー夫人によって命名・進水し、1942年9月9日に艦長レイトン・ウッド大佐の指揮下就役した。

「モントピリア」はバージニア州ノーフォークを出航し、1943年1月18日にニューカレドニアヌメアに到着し、アーロン・S・メリル少将率いる第68任務部隊(第32任務部隊第12巡洋艦戦隊)の旗艦となる。1月25日にニューヘブリディーズ諸島エファテ島に到着、同地を拠点として数ヶ月間を過ごす。ガダルカナル島付近の敵勢力を一掃する間に、モントピリアは1月29日にレンネル島沖海戦に参加した。

2月21日にはラッセル諸島への上陸部隊を支援した。3月5日、6日の晩、「モントピリア」はビラ・スタンモーア夜戦において、コロンバンガラ島の飛行場を砲撃し、敵駆逐艦の撃沈を支援した。6月29日、30日、「モントピリア」と僚艦3隻はニュージョージア島侵攻準備としてポポラン島への砲撃を行う。7月11日、12日の晩にはムンダへの砲撃を行った。続く4ヶ月間、「モントピリア」は日本軍の撤退を妨げるためニュージョージア島付近の偵察巡航を行った。中部太平洋方面での作戦が優先されたため、ソロモン方面でまともに戦えるアメリカ軍の艦隊は第39任務部隊(第68任務部隊から改称)だけだった。

オーストラリアシドニーを訪れた後、第39任務部隊はトレジャリー諸島およびブーゲンビル島への侵攻部隊に加わった。11月1日にはブーゲンビル島北部のブカ=ボニス飛行場へ砲撃を行い、ポポラン島、バラレ島の日本軍守備隊に攻撃を行った。巡洋艦と駆逐艦から構成された第39任務部隊は11月2日の夜にブーゲンビル島沖海戦で日本艦隊と交戦する。結果はアメリカ艦隊の勝利で終わり、「モントピリア」は敵艦1隻(軽巡洋艦「川内」)の撃沈の支援に加え、敵機5機を撃墜した。その後、アメリカ軍の空母部隊が到着したため、ソロモン方面でまともに戦える艦隊は第39任務部隊だけという状況は解消された。

1944年2月15日から19日まで「モントピリア」はビスマルク諸島グリーン諸島への上陸を支援した。3月にはトラック島南方で敵艦を探索し、エミラウ島侵攻部隊に加わる。6月14日にマリアナ諸島侵攻支援のためサイパン島への砲撃を開始し、19日から21日まで第58任務部隊と共にマリアナ沖海戦に参加した。この海戦で日本軍の空母部隊は事実上壊滅した。「モントピリア」はマリアナ諸島に戻り、サイパン、テニアングアムへの砲撃を継続した。8月2日にマリアナ諸島を離れ、オーバーホールのため本国に帰還する。

11月25日に戦場に復帰、レイテ湾沖で任務部隊に合流する。11月27日には日本陸軍特別攻撃隊八紘隊一式戦闘機が突入し11人が負傷した。同湾沖で偵察巡航中に「モントピリア」は多くの奇襲攻撃を退け、敵機4機を撃墜した。12月12日からはミンドロ島侵攻支援のため沿岸での援護を行う。1945年1月のリンガエン湾上陸では特攻機の攻撃から上陸部隊を守り、2月にはコレヒドール島のマリベレス湾、パラワン島での作戦支援、4月14日から23日まではミンダナオ島への上陸を支援した。拠点であるスービック湾からボルネオブルネイ湾に向けて出航し、6月9日に到着する。6月17日から7月2日までバリクパパンの給油所から出航し、掃海艦、水中爆破班、上陸部隊への支援を行う。「モントピリア」は艦砲射撃によりオーストラリア軍部隊を支援し、多くの連合軍将兵の命を救った。7月の後半から8月にかけては東シナ海で3度の哨戒を行った。

戦争が終了すると、「モントピリア」は和歌山港に停泊し連合軍捕虜の収容を支援した。日本軍艦艇の検査後、「モントピリア」の乗員は広島市の様子を見学するために上陸した。10月18日には松山市で駐屯軍の上陸支援を行い、11月15日に瀬戸内海を離れ東海岸に向かう。太平洋からハワイを経由してサンディエゴに向かい、続いてパナマ運河を通過、最終目的地のニューヨークに到着した。

1945年12月11日に大西洋艦隊に合流、1946年7月1日に第16艦隊に配属される。「モントピリア」は1947年1月24日にフィラデルフィアで退役し係留された。1959年3月1日に除籍され、1960年1月22日にベスレヘム・スチール社にスクラップとして売却された。

「モントピリア」は第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。

歴代艦長

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  • レイトン・ウッド Leighton Wood 海軍大佐:1942年9月9日 - 1943年6月9日 初代艦長。最初の巡航中に死去。
  • ロバート・G・トービン Robert G. Tobin 海軍大佐:1943年6月9日 - 1943年12月2日
  • ハリー・D・ホフマン Harry D. Hoffman 海軍大佐:1943年12月2日 - 1945年3月3日 将官へ昇進。「"The Horse."」の愛称で呼ばれる。
  • ウィリアム・A・ゴーリー William A. Gorry 海軍大佐:1945年3月3日 - 日本降伏時の艦長。

関連項目

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外部リンク

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