ルートヴィヒ・グットマン

ルートヴィヒ・グットマン(Ludwig Guttman, 1899年7月3日 - 1980年3月18日)は、ドイツ出身のユダヤ系神経学者。「パラリンピックの父」とされる。

経歴編集

ドイツ帝国シュレージエン州英語版トスト(現在のポーランドグリヴィツェ郡トセク英語版)出身。ブレスラウのユダヤ病院で医師をしていたが、1939年、ナチスによる反ユダヤ主義が台頭したドイツを離れ、イギリスに亡命した。1944年、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長に就任、1966年まで勤務した。

第二次世界大戦における戦闘で障害を持つことになった傷痍軍人たちの治療を通じて、その身体的・精神的なリハビリテーションスポーツが最適であると考えたグットマンは、1948年、入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を始めた。この競技会はその後国際大会として開催されるようになり、参加者数も増えて規模が拡大し、1960年に同年のオリンピックと同じイタリアローマで開催された国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会が、のちにパラリンピックの第1回大会、ローマパラリンピックと見なされることとなった。傷痍軍人たちを治療している頃に「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉をかけている。グットマンはイギリス障害者スポーツ協会の設立者でもあり、大英帝国勲章も授与された。1976年王立協会フェロー選出。

日本との関係編集

 
1964年東京パラリンピックにて
手前左から皇太子皇太子妃両殿下、
奥左から畑田和男医師、中村裕日本選手団団長、グットマン博士

グットマンの下で学んだ中村裕を通じて日本にも障害者スポーツの種が撒かれた。

  • 1959年 厚生省からの研修生(中村裕医師)を受け入れ。
  • 1960年頃 1964年東京オリンピック後にパラリンピックを開催することを要請[1]。 
  • 1964年
    • 6月 パラリンピックの開催準備視察のため来日、大分県で開催された身体障害者体育大会を視察[2]
    • 11月 東京パラリンピックに参加、開会式でスピーチ。大会終了後、厚生大臣から勲三等旭日中綬章が贈られた。
  • 1975年 大分県別府市で開催された第1回フェスピック大会時にも来日している[3]

日本語文献編集

『身体障害者のスポーツ』
市川宣恭監訳、医歯薬出版、1983年
Ludwig Guttmann, Textbook of Sport for the Disabled, 1976の日本語訳

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関連項目編集

外部リンク編集