上毛野三千
飛鳥時代の豪族。姓は君。大錦下。『帝紀』と上古諸事を記定。
上毛野 三千(かみつけの の みちぢ)は、飛鳥時代の豪族。姓は君。冠位は大錦下。
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天武天皇10年(681年) |
官位 | 大錦下 |
主君 | 天武天皇 |
氏族 | 上毛野君 |
経歴
編集上毛野朝臣氏については、『新撰姓氏録』左京皇別・右京皇別に下毛野朝臣氏と同祖とあり、『日本書紀』の記述からも崇神天皇の長男の豊城入彦命の子孫とされている[1]。
『書紀』巻第二十九によると、天武天皇10年(681年)3月に天皇は大極殿(おおあんどの)から詔して、『帝紀』(すめらみことのふみ、天皇系譜の記録)と上古(いにしえ)の諸事(もろもろのこと)の記定作業を命じている。この撰定者の中で、三千の名前は川嶋皇子・忍壁皇子らに次ぐ七番目に記載されており、皇族以外の人臣としては一番目に当たる。この時の位階は大錦下(たいきんげ)であった[2]。
しかし、この事業は完成せず、同年8月、三千はこの世を去った[3]。
天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、上毛野君氏は一族の稚子の奮戦や三千の労など、長年朝廷に尽くしてきたことにより「朝臣」の姓を授与されている[4]。