下海岸
概要
編集箱館(のちの函館区)からみて東側の津軽海峡沿岸地域をいう。江戸時代末期から明治時代初期にかけて呼ばれたもので箱館を中心に西側地域を「上(かみ)」、東側地域を「下(しも)」と呼ばれていたことからこのように呼ばれるようになった。さらに時代を遡ると、松前の西側地域を「上(かみ)」、東側地域を「下(しも)」と呼んだことが元になったと言われている。行政区分では旧・銭亀沢村、旧・戸井町、旧・恵山町の3町村が当たる。文献によっては「下(シ)モ在」とも記述している[1]。
歴史
編集年表
編集安東氏時代(1223年-1589年)
編集- 14世紀後半から末頃 - 志苔館が築かれる
- 1456年(康正2年) - 志濃里でアイヌの男性「オッカイ」が刺殺される
- 1457年(康正3年、長禄元年)
- 5月 - コシャマインの戦い勃発
- 月日不明 - 志苔館が陥落する
松前氏時代(1590年-1798年)
編集幕府直轄時代
編集明治政府への引き継ぎと箱館戦争
編集箱館戦争後(1869年-)
編集北海道開拓使時代(1871年-)
編集函館県時代(1882年-)
編集内務省北海道庁時代(1886年-)
編集- 1902年(明治35年)
- 1919年(大正8年)4月1日 - 銭亀沢村、一級町村制施行
- 1921年(大正10年)8月20日 - 湯の川戸井間乗合自動車合資会社、湯川 - 戸井間路線バス運行開始[5][6]
- 1922年(大正11年) - 湯の川戸井間乗合自動車の路線バスが藤野自動車に譲渡される[5][6]
- 1927年(昭和2年)12月31日 - 戸井電気軌道が軌道敷設を申請(未成線)[7]
- 1928年(昭和3年)
- 1933年(昭和8年)3月3日 - 三陸地震津波。志苔海で1.2m記録する[9]
- 1935年(昭和10年)5月 - 水上自動車が 湯川 - 戸井間路線バス運行開始。約1年間で撤退[5][6]
- 1937年(昭和12年)
第二次世界大戦後
編集- 1946年(昭和21年)9月15日 - 函館市へ銭亀沢村の根崎温泉地区を編入、函館市から銭亀沢村へ旧・亀尾村の字鐵山の一部と字蛾眉野の一部を編入
- 1956年(昭和31年)6月1日 - 函館市交通局(現・函館市企業局交通部)が函館市営バス下海岸線(函館駅前 - 石崎間)を開設[11]
- 1960年(昭和35年) - チリ地震津波。銭亀沢村、銭亀沢港で1.43m、志苔海で2.05m、石崎村谷地で2.02mを記録する[9]
- 1961年(昭和36年)4月20日 - 銭亀沢村に函館空港が開港
函館市へ編入
編集脚注
編集関連項目
編集- 市町村
- 交通
- 道路
- 鉄道・路線バス
- 航路
参考文献
編集- 函館市史 通説編第1巻 函館市 1980年
- 函館市史 銭亀沢編 函館市史編さん室編 函館市 1998年
- 恵山町史 恵山町史編纂室編 函館市恵山支所 2007年
- 鉄道省『温泉案内 鉄道省編』博文館、1931年