中原成通

平安時代中期の官人・武士

中原 成通[注 1](なかはら の なりみち)は、平安時代中期の官人武士官位明法博士

 
中原成通
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
官位 検非違使右衛門少志明法博士
主君 後一条天皇
氏族 中原氏
テンプレートを表示

生涯 編集

寛仁3年(1019年)、右衛門志検非違使に任じられる[注 2]

長元元年(1028年)、平忠常の乱が起こった。同年6月、その報告が京都に届くと、平直方とともに平忠常の討伐を命じられる(追討使には、はじめ源頼信の名が挙がっていた)[2]。成通は直方と不和であったという[要出典]

京都からの出発が8月5日と遅れている間に戦線は拡大し、追討使の軍が到着しても戦果は挙がらなかった[1]。同2年2月、東海・東山・北陸諸国の軍を加えたが、乱を鎮圧することはできず、同年暮れ、成通は追討使を解任された(実際は危篤の母を思って帰京を計画し、失敗したという[要出典][1]

長元4年(1032年)には私欲のために戦をした平正輔平致頼の罪状を作成した。永承7年(1052年)には明法博士として名前が見える。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『甲府市史』では「成」としている[1]
  2. ^ 『甲府市史』では、平忠常の乱のときの官職として、検非違使右衛門少志としている[2]

出典 編集

参考文献 編集

  • 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史 通史編』 第一巻《原始・古代・中世》、甲府市役所、1991年4月20日。NDLJP:9540836 (要登録)
  • 『十世紀に於ける左衛門府官人の研究』 - 朧谷寿(『平安博物館研究紀要』)