中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)[3][9]

なかむら こうか
中村 紅果
本名 中村 縣三 (なかむら けんぞう)
別名義 中村 憲三 (なかむら けんぞう)
生年月日 (1899-05-07) 1899年5月7日
没年月日 (1961-01-29) 1961年1月29日(61歳没)
出生地 日本の旗 日本 秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)
死没地 日本の旗 日本 秋田県山本郡二ツ井町(現在の同県能代市二ツ井町)
職業 俳優
ジャンル 新劇劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1947年
配偶者 某 (初婚)
中村みつ (再婚)
著名な家族 中村一男(養子、夭折)
主な作品
修羅八荒
國士無双
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人物・来歴 編集

1899年明治32年)5月7日秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる[1][2][3]

旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙新文藝協会に入って新劇運動に参加する[1][2]。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ[1][3]。その後、黎明座、村田栄子新戯曲座の設立に参加し、幹部となる[1]。当時の同学の友人にのちの大阪大学教授・ト部和義がおり、同じ役者志望であったト部の勧めもあって俳優の道を選んだが、このことによって実家の怒りを買って学費が途絶え、同学は2年次に中途退学した[1][2]

1925年(大正14年)2月、京都に移り、大将軍日活京都撮影所新劇部に入社、同撮影所に第二部が設置されると、河部五郎尾上多見太郎らとともに同部に異動した[1]。同年中に時代劇に転向、資料にみられるもっとも古い出演クレジットは、満26歳のときである同年11月1日に公開された池田富保監督の『荒木又右衛門』における「星合団四郎」役である[4][5]。同撮影所には、同じ秋田の県南出身の監督、辻吉郎がおり、親しくつきあったらしく、辻の作品には多く出演している[2][4]。同時代の京都に藤田渓山がおり、中村や藤田の旧制中学校時代の同級生であった仁平久とともに親しくし、藤田の回想によれば中村や仁平、当時助監督の八森重芳らが結成していた「日活秋田県人会」にも参加させるほどであったという[2]。俳句を嗜み、「銀斧子」の俳号を持ち、所内に「時代劇俳句会」を結成して幹事を務めた[2]。時期・相手ともに不明であるが、この時期に1度目の結婚をしている[2]。1934年(昭和9年)、日活を退社、地方巡業の演劇に参加する[2][4]。同年7月には、『レ・ミゼラブル』を秋田県能代市能代劇場で上演し、浅野雪子らとともに舞台に立っている[2]。同月末には、京都の三友劇場で、同じ日活出身の賀川清浅見勝太郎、元河合キネマ松林清三郎、元宝塚キネマ興行竹川巌らとともに「平安家庭劇」として舞台に上がっている記録がある[10]

1938年(昭和13年)、満洲国(現在の中国東北部)に渡り、新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)の満洲電信電話に入社、同社の新京中央放送局俳優養成所演技部長に就任して声優を養成、出演もした[2]。雑誌『放送文化』の編集も行い、「放送劇団」を結成し、若き日の森繁久彌芦田伸介らとともに軍を慰問した[2]。1940年(昭和15年)には、「中村憲三」の名で、新興キネマ製作・配給の映画『秋葉の火祭』に出演した記録が残っている[9]。1944年(昭和19年)、新京市内の洋品店に勤務する平沢みつと再婚する[2]

第二次世界大戦の終結を受けて満洲国は瓦解、放送局も解散して、1946年(昭和21年)には引き揚げて福岡県福岡市博多に1年暮らすが、翌1947年(昭和22年)、日活の秋田県人会時代に交流のあった八森の招きで秋田県能代市に移住し、渟城女子高等学院(現在の渟城女子専門学校)に夫婦ともども教職を得、同校を経営する能代八幡神社宮司・渟城毅のもつ敷地内に居寓した[2]。同年11月には、ふたたび能代劇場で『レ・ミゼラブル』を上演、主演した[2]1949年(昭和24年)2月20日に起きた能代大火で焼け出され、秋田県山本郡二ツ井町(現在の同県能代市二ツ井町)に移住、秋木工業の寮の管理者となった[2]。時期は不明であるが、戦災孤児を養子として育てていたが、1951年(昭和26年)までに自殺により失っており、中村夫妻に子どもはいなかった[2]

1961年昭和36年)1月29日、同町で死去した[2]。満61歳没。墓所は実家の存する同県湯沢市の清涼寺、戒名は寒山銀斧子居士である[2]

フィルモグラフィ 編集

すべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター (NFC) 所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

日活大将軍撮影所 編集

すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」である[4][5][7]

日活太秦撮影所 編集

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」である[4][5][7]

フリーランス 編集

製作・配給は特筆の通り、特筆以外は「中村紅果」名義での出演である。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g 明潮社[1929], p..
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 初期日活映画の傍役スター 中村紅果野添憲治秋田県、2013年1月4日閲覧。
  3. ^ a b c d 中村紅果, jlogos.com, エア、2013年1月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 中村紅果日本映画データベース、2013年1月4日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 中村紅果、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月4日閲覧。
  6. ^ 中村紅果allcinema, 2013年1月4日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i 中村紅果、日活データベース、日活、2013年1月4日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 中村紅果東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月4日閲覧。
  9. ^ a b c d e 中村憲三、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月4日閲覧。
  10. ^ 国立劇場[2003], p.510.
  11. ^ a b c 砂繪呪縛 第一篇、第二篇、完結篇マツダ映画社、2013年1月4日閲覧。
  12. ^ a b c 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年1月4日閲覧。
  13. ^ 國士無双、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月4日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集