ジョウ・オハラ

仁平久から転送)

ジョー・オハラ英語: Joe Ohara, 1903年12月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3]。本名は仁平 久(にひら ひさし)[1][2][3]。別表記ジョウ・オハラジョー・オ・ハラジョー 大原(ジョー おおはら)。別芸名大原 仁美(おおはら ひとみ)、大原 譲および大原 穣(おおはら じょう)。新派俳優西田敏夫と共に小松商会の専属俳優から始まり、新興キネマ東京撮影所大映東京撮影所などで長く活躍した名脇役として知られる[1]

Joe Ohara
ジョー・オハラ
ジョー・オハラ
1923年の写真、満20歳。
本名 仁平 久(にひら ひさし)
別名義 ジョウ・オハラ
ジョー・オ・ハラ
ジョー 大原(ジョー おおはら)
大原 仁美(おおはら ひとみ)
大原 譲(おおはら じょう)
大原 穣
生年月日 (1903-12-10) 1903年12月10日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 秋田県秋田市中亀ノ丁上町(現在の同市南通亀の町
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー)、テレビドラマ
活動期間 1921年 - 1971年末
主な作品
町内の看板娘
 
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1961年)
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人物・来歴 編集

1903年(明治36年)12月20日秋田県秋田市に生まれる[1][3]

旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業し東京へ移転、旧制・専修商業学校(現在の専修大学)を卒業した後に映画会社小松商会に入社している[1]。1925年(大正14年)3月、京都の日活大将軍撮影所に移籍、同年公開の『此の母を見よ』で本格的に映画界にデビューした[1]。1933年(昭和8年)、新興キネマに移籍、現代劇に出演を続けるが、1935年(昭和10年)、マキノ正博が同年末に新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所に入社、現代劇のほか、『次郎長裸旅』で小政を演じている[4]

まもなく新興キネマに復帰、東京に新設された現代劇の撮影所、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に異動する[1][2]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは合併して東京撮影所は閉鎖されたが、オハラは「大原 穣」と名を改め同社に継続入社する[1][2]第二次世界大戦終結後は、大映東京撮影所(かつての日活京都撮影所、現在の角川大映撮影所)に所属し、満68歳となる1971年(昭和46年)末の大映倒産まで、同社に所属して脇役俳優を続けた[1][2]。その後の消息は不明、没年不詳

フィルモグラフィ 編集

すべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[4][5]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

日活大将軍撮影所 編集

新興キネマ京都撮影所 編集

新興キネマ東京撮影所 編集

マキノトーキー製作所 編集

新興キネマ東京撮影所 編集

大映東京撮影所 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j キネマ旬報社[1979], p.281.
  2. ^ a b c d e f ジョー・オハラ日本映画データベース、2012年12月6日閲覧。
  3. ^ a b c d ジョー・オハラKINENOTE、2012年12月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x ジョー・オハラ、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月6日閲覧。
  5. ^ a b c 大原譲、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月6日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集