丹羽長正

日本の安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。丹羽長秀次男で、越前東郷槙山城主(5万石)。従五位下、備中守

丹羽 長正(にわ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名

 
丹羽 長正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 元和6年(1620年
改名 宮松(幼名)→長正
別名 長昌
官位 従五位下備中
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 良岑姓丹羽氏
父母 父:丹羽長秀
兄弟 長重長正藤堂高吉蜂屋直政長俊
長紹(長次)青山宗勝室、古田重治正室、粟屋勝久室、伊木忠次室、稲葉典通正室、種橋成章室、山田高定室、赤田堅
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略歴 編集

丹羽長秀の次男として生まれる。母は越前国朝倉氏遺臣の縁者。

天正13年(1585年)に父が没すると、家督は兄・長重が継ぎ、長正はその許で500石を与えられて豊臣秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、秀吉から越前藤枝城5万石を与えられ、従五位下、備中守に叙任する。後に越前東郷5万石を与えられ東郷槙山城主となり、秀吉から羽柴姓を与えられた、

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、中立だったが東軍の前田利長と敵対したため、(浅井畷の戦いを参照)、戦後に徳川家康によって改易され、大坂城豊臣秀頼に仕えた。しかし慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の前に大坂から脱出する。

元和6年(1620年)、越前福井で死去した。