亀井光
亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日[1] - 1986年(昭和61年)9月26日[1])は、日本の内務・労働官僚、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)、福岡県知事(第6代-第9代)。陸軍司政官[2]。
亀井光 かめい ひかる | |
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生年月日 | 1909年1月1日 |
出生地 |
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没年月日 | 1986年9月26日(77歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部(現東京大学法学部)卒業 |
前職 | 労働事務次官 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
親族 | 太田誠一(女婿) |
選挙区 | 福岡県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1962年7月7日 - 1967年 |
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当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1967年4月23日 - 1983年4月22日 |
経歴
編集福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)古船場町出身[1]。藤吉の三男[3][注 1]。
旧制小倉中学[4]、旧制福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業[1]。内務省に入省[1]。社会局属[5]。労働省労働基準局長[6]、労政局長などを歴任し、1960年(昭和35年)労働事務次官[1]。1962年(昭和37年)参議院議員に当選、大蔵政務次官をつとめた[1]。
1967年(昭和42年)4月、保守・中道統一候補として[7]福岡県知事選挙に出馬し当選[1]。県職員労働組合や教職員組合に対して強硬な姿勢で臨む[8]一方で、元官僚・参議院議員として中央との強いパイプを背景[7]に、日産自動車九州工場(現・日産自動車九州)の誘致や福岡県庁の東公園への移転[9]などの施政を敷いた。保守地盤を背景に4選を果たす[7]が、5選を目前にした1982年(昭和57年)、約6億円をかけた福岡県知事公舎の建設やハワイ州との姉妹縁組など、県費乱用が大きく問題化し、新聞各社が批判キャンペーンを展開し始めた[7]。自民党県連内からも多選批判があり、あと1期だけという条件で自民党は74歳の亀井を推薦した。1983年(昭和58年)の県知事選挙は、社会党・共産党の統一候補である奥田八二との選挙戦となり、3月16日の公示直後は互角、選挙戦終盤は亀井やや有利とされた。しかし4月10日の選挙結果は奥田122万1,622票、亀井117万1,510票で、保守地盤では異例の約5万票差[7]で亀井は敗れた[1]。
県知事退任後、1984年(昭和59年)6月からは福岡空港ビルの社長を務めた。同年秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)[10]。1986年(昭和61年)9月26日死去、77歳。死没日をもって正六位から従三位に叙される[11]。
人物
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』海外8頁では二男。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i 『政治家人名事典』151-152頁。
- ^ 帝国秘密探偵社 1943, 海外8頁.
- ^ a b c 『第二十一版 人事興信録(上)』1961年 「か」一二三頁
- ^ a b 朝日新聞東京、1960年10月12日朝刊10面
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、296頁
- ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第一章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
- ^ a b c d e 読売新聞西部本社『九州の事件五十年 一九六四-二〇一四年』 海鳥社 2016年 ISBN 978-4-87415-968-2 P.182-183
- ^ これに対する反発として、県立高校で校長着任拒否闘争が起きた。
- ^ 一説には、この新築された県庁施設は上空から見れば“亀井光”と読めたという。議会棟は、“亀”の甲羅の形をしており、県庁本部棟は“井”の形、そして県警本部棟にはソーラーパネル(すなわち“光”)が設置されていた(神一行『自治官僚』講談社、1986年)。
- ^ 『官報』号外第128号1頁 昭和59年11月5日号
- ^ 『官報』第17893号9-10頁 昭和61年10月4日号
参考文献
編集- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 『政治家人名事典』編集・発行 - 日外アソシエーツ株式会社、1990年。
公職 | ||
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先代 鵜崎多一 |
福岡県知事 公選第6 - 9代:1967年 - 1983年 |
次代 奥田八二 |
官職 | ||
先代 中西実 |
労働事務次官 1960年 - 1962年 |
次代 富樫総一 |