二尊院(にそんいん)は、京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院。山号小倉山。寺号は華台寺。詳しくは小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)、二尊敎院蕐臺寺と称する。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。

二尊院
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所在地 京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
位置 北緯35度1分16.42秒 東経135度40分4.37秒 / 北緯35.0212278度 東経135.6678806度 / 35.0212278; 135.6678806座標: 北緯35度1分16.42秒 東経135度40分4.37秒 / 北緯35.0212278度 東経135.6678806度 / 35.0212278; 135.6678806
山号 小倉山
院号 二尊教院
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来阿弥陀如来重要文化財
創建年 承和年間(834年 - 847年
開山 円仁
開基 嵯峨天皇(勅願)
正式名 小倉山 二尊教院 華台寺
別称 二尊院
札所等 法然上人二十五霊場第17番
文化財 木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像、絹本著色法然上人像ほか(重要文化財)
公式HP 小倉山二尊院 公式HP
法人番号 8130005001907 ウィキデータを編集
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総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。また、小倉あん発祥の地として伝わる。

歴史編集

平安時代初期の承和年間(834年 - 847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わる。以後荒廃するが、鎌倉時代初期に法然の高弟だった湛空らにより再興され、天台宗真言宗律宗浄土宗の四宗兼学の道場となったが、中でも浄土宗の勢力が強く、嵯峨門徒の拠点となった。

嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際には、法然の遺骸を天台宗の僧兵から守るために法然廟所から二尊院まで六波羅探題の武士団らに守られながら遺骸が移送された。

南北朝時代から御黒戸四箇院(廬山寺・二尊院・般舟三昧院遣迎院)の一つとして、御所内の仏事を明治維新まで司っている。

室町時代になると応仁の乱による延焼で堂塔伽藍が全焼するが、本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)、第16世恵教上人の代に三条西実隆によって再建されている[1]

江戸時代後期より天台宗に属するようになり、「嵯峨三名跡」の1か寺に数えられる。

境内編集

文化財編集

 
本堂内陣 木造釈迦如来立像(向かって右)・阿弥陀如来立像

重要文化財編集

  • 木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像
    本堂に安置。鎌倉時代の作。像高は両像とも78.8センチ。向かって右に発遣(撥遣)(ほっけん / はっけん、現世から来世へと送り出す)の釈迦如来、左に来迎(らいごう、西方極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来が並び立つ。像表面は現状では黒ずんでいるが、金泥塗りとし、截金で文様を表している。両像はよく似ているが、下半身の衣文の形式などに変化をつけている。釈迦如来像が右手を上げ、左手を下げる一般的な印相を示すのに対し、阿弥陀如来像は右手を下げ、左手を上げる通常とは逆の形に造り、両像は左右対称形となっている。また、通常の阿弥陀如来像は親指と人差し指、親指と中指、親指と薬指のいずれかで輪をつくる印相を示すが、二尊院の阿弥陀如来像は下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しい[2]
  • 絹本著色逍遥院実隆像・称名院公条
  • 絹本著色浄土五祖像
  • 絹本著色十王像
  • 絹本著色釈迦三尊像
  • 絹本著色法然上人像 - 鎌倉時代。通称「足曳きの御影」。画面の損傷が激しいが、法然の画像としては最古級のものである。
  • 法然上人七箇条制法 附:蒔絵箱
  • 法門名義 巻第一

重要美術品編集

  • 絹本著色二十五菩薩来迎図 十七幅

京都市指定有形文化財編集

  • 本堂 附廊1棟
  • 湛空廟 附石柵
  • 惣門(総門) 附棟札1枚
  • 八社宮

その他編集

所在地編集

その他編集

交通アクセス編集

脚注編集

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  1. ^ 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、pp.1079 - 1080; 『仏像めぐりの旅 5 京都(洛北・洛西・洛南)』、p.86
  2. ^ 京都国立博物館・東京国立博物館編『最澄と天台の国宝』(展覧会図録)、読売新聞社刊、2005、pp.327 - 398(解説執筆は浅湫毅)
  3. ^ 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」単行本第153巻p.6

参考文献編集

  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
  • 『仏像めぐりの旅 5 京都(洛北・洛西・洛南)』、朝日新聞社、1993

外部リンク編集