井上 元有(いのうえ もとあり)は、戦国時代武将毛利氏家臣安芸井上氏清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の支流。父は井上有景

 
井上元有
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文19年7月12日1550年8月24日
別名 通称:与三右衛門尉
主君 毛利元就
氏族 安芸井上氏
父母 父:井上有景
兄弟 元有元重
与四郎(就勝)就正
テンプレートを表示

生涯 編集

安芸井上氏井上有景の長男として生まれる[1]

安芸井上氏は元々は安芸国国人であったが、元有の伯父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べているが、その具体例の一つとして井上元有とその長男・与四郎(就勝)の振る舞いを挙げている[2]

ある時、元有の長男・与四郎が光永四郎右衛門尉の子・彦七郎と論争になった末に、怒りのあまり彦七郎の顔面を拳で殴り大いに辱めた。これを知った元就は与四郎の行動を憎むと共に、光永彦七郎が恥辱を受けながらもそれを雪ぐことが出来なかったことを遺憾とし、両者の父子に自刃を命じようとした。しかし、安芸井上氏は互いに結託して元就の命に従わないばかりか、光永四郎右衛門尉を斬殺してしまったという[2]

天文19年(1550年7月12日、元就による安芸井上氏粛清の手始めとして、元有は安芸国竹原に誘い出され、小早川隆景によって殺害された。翌7月13日には元有の長男の与四郎、弟の元重、元重の子の就義も居宅において殺害されている。

なお、次男の就正(孫兵衛)出雲国へ逃れて尼子晴久義久父子に仕え、尼子氏滅亡後の永禄10年(1567年)に毛利氏へ帰参した。

脚注 編集

  1. ^ 閥閲録』巻112「井上孫兵衛」の家譜によれば、有景の子が元有とする系譜もあるが、家に伝えられているのは元有の子が有景であると記している。一方で『新裁軍記』では有景の子が元有であると考証している。
  2. ^ a b 『毛利家文書』398号 年未詳8月4日付 尾崎局宛て毛利元就井上衆罪状書。

参考文献 編集