井出 正次(いで まさつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の幕臣代官および遠国奉行 。駿河代官・三島代官・駿府町奉行を歴任した。

 
井出正次
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文21年(1552年
死没 慶長14年2月26日1609年3月31日
別名 通称:甚助、藤九郎
墓所 北山本門寺伊豆国分寺[1]
官位 従五位下志摩守
主君 徳川家康
氏族 井出氏
父母 父:井出正直、母:興津氏
兄弟 正次正勝正俊
遠藤飛騨某の娘
正則、仲正、正成、将監、次行、正員、次忠、勘兵衛
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生涯編集

 
井出正次墓所(北山本門寺境内)

井出正次の出自である井出氏武田氏駿河侵攻の際に今川氏側として富士城にて抗戦、今川氏凋落後は後北条氏の庇護を受けた。その後正次は徳川家康に召し抱えられ、天正10年(1582年)に駿河代官に任ぜられた[1]。また駿河国富士郡に発給される徳川家康朱印状の奉者となり[2]、多くの文書が残る。

慶長6年(1601年)には志摩守に叙任されていたといい[3][4][注釈 1]、また三島代官に任ぜられている[5][6][1]。慶長12年(1607年)には駿府町奉行となっている[7][8]。このように正次は要職を歴任している。

慶長14年(1609年)2月26日に死去。台徳院殿御実紀巻九には「駿河町奉行兼代官井出志摩守正次病なくして頓死す」とあり、急死であったとしている。この正次の活躍により、井出家は代官を輩出する家柄となった。

脚注編集

注釈

  1. ^ 台徳院殿御実紀巻四には慶長11年12月に「井出甚助正次叙爵して志摩守と称す」とあるが、慶長6年の発給文書には既に「志摩守」とあるという[4]

出典

  1. ^ a b c 『裾野市史』第8巻通史編Ⅰ 302頁、2000年
  2. ^ 富士市立博物館、『六所家総合調査報告書 古文書①』17頁、富士市教育委員会、2014年
  3. ^ 富士市立博物館、『六所家総合調査報告書 古文書②』37項、2016年
  4. ^ a b 関根(1992) p.13
  5. ^ 関根(1992) p.21,26
  6. ^ 和泉(1995) p.450
  7. ^ 和泉(1995) p.451
  8. ^ 関根(1992) p.26

参考文献編集

  • 関根省治 『近世初期幕領支配の研究』雄山閣出版、1992年。ISBN 4-639-01111-3 
  • 和泉清司 『徳川幕府成立過程の基礎的研究』文献出版、1995年。ISBN 4-8305-1184-2