駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代合戦永禄11年(1568年)から開始された甲斐国戦国大名である武田信玄による駿河国今川領や後北条氏領への侵攻。

駿河侵攻前の情勢編集

 
武田信玄
 
「内房口の戦い」の首塚(静岡県富士宮市内房)[1]

天文23年(1554年)に駿河今川氏・甲斐武田氏・相模北条氏との間で駿甲相三国同盟が締結された。今川義元武田信玄北条氏康の三大名の政略結婚を基盤とした軍事同盟であった。

しかし永禄11年(1568年)12月に武田信玄は駿河国に侵攻する。この動向により14年間維持された同盟は破綻、武田氏と今川氏との戦いが展開されることとなる。この背景として、特に駿甲の情勢変化が挙げられている。

今川氏は三河地方において尾張織田氏と対立[2]、永禄3年(1560年5月19日桶狭間の戦いで義元が敗死すると今川領国は動揺する。翌4年(1561年)4月11日には松平元康[注釈 1]が離反し、永禄6年(1563年)には遠江国で「遠州忩劇」と呼ばれる国衆の反乱が発生するなど、今川領国は弱体化していった。信玄はこの遠州忩劇時に駿河侵攻を考え始めたとされる[5]

一方武田氏は同盟締結後に信濃侵攻を本格化させ越後上杉氏と対立、 川中島の戦いを経て西上野侵攻を開始するなどしている。永禄7年(1564年)には義元の娘嶺松院を正室に迎えていた嫡男義信が廃嫡される事件が起こり(義信事件)、翌8年(1565年)には信玄四男武田勝頼の正室に織田信長の姪を迎え同盟を結ぶなど[原 1][6]、対外方針に変化が生じている[注釈 2]。永禄10年(1567年)には嶺松院が駿府へ送還されることが決定するなど[7]、緊張は極度に高まっていた。

これら動向の中で、駿河侵攻以前に武田・徳川間の同盟が成立している[8][9]。しかし『甲陽軍鑑』『三河物語』等に記されるような国分協定[注釈 3]自体は、存在したとする見方[10]としなかったとする見方[11]とで分かれている。こうして武田氏は駿河侵攻を開始、先ず駿河国富士郡の要衝で富士氏が守る大宮城(富士城)から攻撃は開始された[12]

侵攻開始から甲斐一時撤退(第一次)編集

 
今川氏真
 
早川殿

永禄11年(1568年12月6日、信玄は駿河侵攻を開始した。武田軍による攻撃は、同9日に駿河国富士郡大宮城から開始された[13][14]。武田軍別働隊が大宮城を攻撃、大宮城主の今川家臣富士信忠は防衛に成功する[15]。その後武田軍は進路を西に向け内房を経て駿府方面へと向かった。この「内房口の戦い」にて今川家臣荻清誉が戦死している[16]

この動向を見た氏真は薩埵峠で迎撃の構えを見せたが、家臣の離反が重なったため、あえなく退却する。離反した家臣は重臣とも言える面々であり、瀬名信輝朝比奈信置葛山氏元らや[17] 三浦義鏡等が信玄に内通して今川氏を裏切ったのである。このため今川軍は戦わずして敗れ、12月13日に武田軍は駿府に入った。氏真は駿府を追われ、遠江懸川城へ敗走した。

この事態を伝える氏康書状には「愚老息女不求得乗物躰、此恥辱難雪候」とあり[原 2]、氏康の娘で氏真の正室早川殿は輿も用意できずに徒歩で逃げざるを得ない危機的状況であった。また氏康は、娘が徒歩で逃げるという屈辱的な状況となったことに対し激怒している。

信玄は駿河侵攻の理由を「今川氏と上杉氏が武田を挟撃しようと画策していたため」と北条氏に説明していた[18]。しかし氏真は氏康にとって娘婿という間柄である上、早川殿に降り掛かった災いもあり、氏康は武田氏との同盟破棄を決意する[19][注釈 4]

また氏真の援軍要請を受けて北条氏当主である北条氏政自身が駿河に援軍に向かっており、12月12日 には伊豆三島に陣を張っている。この翌12月13日に氏真は懸川城へと敗走しているが、氏真敗走の同日北条氏は薩埵峠に先鋒隊を送っており、北条氏信が薩埵峠近郊の蒲原城に城主として入城している。結果、興津川以東を北条方が押さえる格好となった[14][20]

しかし同13日に徳川家康も三河から遠江に侵攻しており、井伊谷城白須賀城・曳間城(のちの浜松城)を落として同21日には懸川城外の天王小路で今川軍と交戦している[14]

武田氏の駿河侵攻で武田方に与する今川旧臣が居た一方、徳川方に与した者も居た。井伊谷三人衆もその例であり、遠江侵攻前に徳川方の交渉で引き入れており、仮に武田方が介入してきても見放さないという起請文を家康は与えている[11]。結果、家康は懸川城を包囲するに至る。このとき、大沢基胤中安種豊が対徳川勢力として踏みとどまっていた[21]。しかし武田方の秋山虎繁が遠江に侵入したため、武田と徳川間で齟齬が生じるなどしている。

この事態に北条氏康も駿河に向けて出陣することとなり[22]、永禄12年(1569年)正月26日には北条軍と武田軍が薩埵山にて対陣する。

同年2月1日、信玄は河内領主穴山信君に命じて葛山氏元と共に再び大宮城を攻めさせたが、富士信忠は再度これを防衛することに成功する[23]。三島から出陣していた氏政は2月6日には薩埵山に布陣、同26日に北条氏邦が興津城を攻撃し[24]、同28日には薩埵山・興津一帯で武田軍と北条軍が交戦する。

同年3月にも武田軍と北条軍は交戦を重ねるが、勝敗はつかなかった。また各地で戦闘が発生、同月に富士上方[注釈 5]の上野筋[注釈 6]では北条方の井出正次正直が戦功をあげるなどしている[原 3][原 4]

富士上方には甲斐と駿河を結ぶ街道である中道往還が通過しており、そこを井出氏が抑えていた。また富士氏が籠もる大宮城が位置する富士大宮は駿州往還に近接しており、これら街道を未だ今川方が抑えていたため、武田軍は挟撃される恐れがあった[25]。同年4月には大沢基胤と中安種豊が守る堀江城が開城し、徳川方に明け渡すこととなる。両者は最前線でよく守っていたが情勢は難しく、氏真より事実上の暇を得て[原 5]、徳川方に帰属することとなる[原 6]

武田氏は下総国簗田氏常陸国佐竹氏・安房国の里見氏ら関東諸氏に呼びかけて牽制を行ったが[26][27]、北条氏を撤兵させるには至らなかった。関東諸氏への呼びかけは家康宛の「武田信玄条目」から知られ、武田は家康に北条氏と同調しないよう暗に伝えている[注釈 7]

信玄は久能山に久能城を築城、4月19日には久能城横山城の城掟を定め[28][14][原 7][原 8]、対北条氏の押さえの城郭とした。4月28日には穴山信君を残して興津を撤兵し、甲府に撤退した[29][原 9]

この甲斐撤退は現在も「信玄の樽峠越え」という伝承として残るが、これは大宮城を落とせず中道往還や駿州往還を通過できなかったため、難所を切り拓いて帰国せざるを得なかったためである[30]。こうして第一次駿河侵攻は、武田軍が駿府を占有するに至る。一方で富士郡と駿東郡は北条軍が抑える状況であった。

懸川城開城から大宮城開城(第二次)編集

 
北条氏康

徳川と今川との交渉の末、永禄12年(1569年)5月6日には懸川城の開城が決定[31]、徳川・北条間の和睦の元氏真と早川殿は同15日に出立し、海路を用いて同17日には北条領の蒲原城に脱出した[32][33]

こうして戦国大名としての今川氏は滅亡した。また氏真は同年5月23日には氏政の嫡男・国王丸(北条氏直)を養子に迎えて駿河・遠江の支配権を譲った[原 10]。同様の内容を示す北条氏政書状が同年閏5月3日に大宮城主富士信忠に発給されており、北条側からも周知が図られた[原 11]

また氏真は同年閏5月15日時点で大平城に在城しており、氏真書状に「於懸河・大平逐籠城」とあるように、籠城の構えを見せている[34][35]。またその後は伊豆韮山城に移ったとする見解もある[36]。氏真はこの間家臣らに感状を発給、大宮城で奉公した井出伊賀守[原 12]や薩埵山で奉公した嶋田甚大夫への文書が残る[原 13]

同年6月9日には北条氏政と上杉輝虎越相同盟を締結する。越相同盟と同月に信玄は再び軍勢を率いて北条領に侵攻し北条軍を牽制、伊豆・三島一帯を放火した上で進路を西にとり、御殿場口から駿河に侵攻した。駿河には未だ陥落していない大宮城が所在し、3度目となる大宮城攻撃を行うためであった。

同年6月から大宮城攻撃は開始され翌7月3日についに大宮城は開城した[37][38][39]富士郡の要衝であり不落であった大宮城を攻略したことにより、武田軍は富士郡を支配下に治めることに成功した。

この時北条氏康は一族を総動員し、北条氏政・氏規氏邦氏忠氏信が出陣している[40]。その後武田軍は甲府へ撤退する[41]

信玄は後北条氏の戦力を駿河方面から小田原方面へ集中させるため、同年8月下旬に甲府を出て信濃国から碓氷峠を越え武蔵国に入り、関東の北条領へと入る[42]。氏邦を城主とする鉢形城北条氏照を城主とする滝山城を攻撃し、その後更に小田原まで侵攻し火を放ち、同年10月4日には領国への帰還を開始する。帰還の途で三増峠の戦いとなり、武田軍は北条軍を破り甲府へと帰還した[34]

こうして第二次駿河侵攻では大宮城を陥落させたことで武田氏は富士郡を手中に収めることに成功する。また小田原侵攻で駿河の北条軍を関東へ引き戻すことに成功したため、次回駿河侵攻のための状況を整えたとも言える。

信玄の駿河再出兵から駿河占領(第三次)編集

 
北条氏政

永禄12年(1569年)11月9日、信玄は諏訪大社に戦勝祈願し[原 14]、駿河に向け甲府を出立する。これを見た北条氏康は氏政・氏規・氏忠を韮山城へと派遣する。信玄は同22日に大宮城に着陣し27日まで在陣した後、西方へ移動を開始する[43]。諏訪大社への願文に「則蒲原城、興国寺同前、駿州一円令静謐、達信玄本意者」とあるように、武田軍は駿河に入ると12月6日には蒲原城を攻撃した。

信玄書状に「当地之事者海道第一之名地」と見える蒲原城はこの猛攻で落城[原 15]、蒲原城主北条氏信をはじめとして弟の北条長順、重臣の清水新七郎・笠原氏・狩野介らが討死するという結果となった[44][原 16]。同じく戦線に居た富士信忠は辛くも離脱するという状況であり、信忠宛の北条氏政書状では「余令恐怖 其以来無音」とある[45][原 17]

蒲原城落城の影響は極めて大きく、武田勝頼書状に「去十二夜中、薩埵自落」とあるように[原 18]、同12日には薩埵山の北条軍も自落した。この大きな情勢変化により、北条氏は撤退を余儀なくされる。

同13日には今川館に籠もる岡部正綱が降伏、こうして武田氏は駿府を占領した。正綱は懸川城開城後に駿府を再興していたが[46][47]、明け渡すこととなった。

信玄は駿河で越年し、永禄13年(1570年)正月には駿河山西[注釈 8]に進出した。同地域には花沢城と徳之一色城(後の田中城)が在った。武田軍は大原資良が籠もる花沢城に度重なる攻撃を仕掛けたが落城しなかったため、最終的には同月下旬に信玄自ら出陣し落城させた。また『武徳編年集成』には「正月二十五日、信玄大兵ヲ率テ」とある[48]。その後、徳之一色城も落城させた。

信玄は同年2月中旬に清水に移動する。清水では水軍拠点の構築や海防施設構築を行っていた可能性が諸家により指摘される[49]。信玄は同月下旬には甲斐へ一時帰国する。

同年4月16日[注釈 9]に武田軍は富士口[注釈 10]へ出陣、同年8月になると武田軍は駿東郡への攻勢を強めていく。武田軍は8000の兵を率いて北条方の韮山城を攻撃、氏規・氏忠ならびに清水康英大藤政信といった重臣らがこれを撃退する[40][50]。氏真は元亀元年(1570年)9月3日には相模に移っている[51][34]

翌元亀2年(1571年)に入ると武田軍は深沢城興国寺城への攻撃を激化させる。深沢城は駿河侵攻以後に北条方が築城した城であり、永禄12年(1569年)閏5月13日には存在が確認され、北条綱成松田憲秀が派遣されていた。大宮城の落城後は河東地域[注釈 11]の対武田軍の最前線拠点となっていた城である。興国寺城は永禄12年正月に垪和氏続が城将として派遣され、同年8月には城主に任命されており、それ以来氏続が守っていた[52]

元亀2年(1571年)正月10日に氏政は深沢城へ救援に向かうも綱成は耐えきれず、深沢城は16日に開城する。一方、興国寺城は氏続が防ぎ切っている。深沢城開城後は当地での抗争は収まっているが、北条氏は深沢城を攻略されたことで御厨地域を失っており、北条氏の駿河における影響力は駿東郡南部に限定される形となった。危機感を感じた北条氏は3月に足柄城河村城の普請を行っている[53]

同年10月3日に北条氏康が死去したため氏政は武田氏との講和へと着手する[40]。同年12月には甲相同盟が締結され、翌3年(1572年)の国分により終息している[54]。国分では同年正月8日に北条方の興国寺城と平山城が武田氏に引き渡されており、駿河の北条氏領の多くは武田方となっている。しかし部分的には駿河の北条氏領は残り、狩野川黄瀬川が境界であるとされる[55]

第三次駿河侵攻で武田氏は駿東郡への攻勢を強め、戦局を優位に進めた。氏康死去を転機として甲相同盟が締結されたことにより、武田氏は駿河一国をほぼ領することとなった。

武田・徳川間の相違編集

 
徳川家康

駿河侵攻の過程で、徳川家康が武田信玄に抗議する事態が発生している。両者は侵攻以前に同盟を締結していたと見られるが、両者の意図には齟齬があり、武田軍の一部である秋山虎繁別働隊が永禄11年(1568年)に遠江国へと干渉している[56]。結果家康が抗議する事態となり、信玄は謝罪した上で永禄12年(1569年)正月には別働隊を引かせている[11][57]

この問題を解決するため、家康は信玄に誓詞を提出し、信玄は家康に血判状を提出している[注釈 12]

この秋山虎繁の遠江侵入が武田・徳川同盟に亀裂を生じさせ、家康の対外政策は急変する。また家康は、信玄の弟にあたる武田信友らが事前の相談もなく今川方と人質交換を行ったことに対し盟約違反であると抗議し、結果武田方は人質としていた酒井忠次の妻を徳川方へと返還する事態となっている[59]

永禄12年(1569年)3月8日、家康は条件を今川氏真に提示し、開城を促した[60]。同年5月6日には懸川城は開城し、徳川・北条間の和睦の元、氏真と早川殿は北条領に脱出した[61]。この動向に対し信玄は、同23日の織田信長に宛てた書状にて「存外之次第」と不満をあらわにした。また「既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候」とし、家康は氏真と北条氏康・氏政父子と和睦しないと誓詞に明記していたのにも関わらずそれに違反したという認識を示している[62][63]

その後も信玄の不満は収まらず信長宛に書状を出し、家康による誓詞の存在を持ち出すなどし、執り成しを期待したが成されなかったことに対する不満をあらわにしている[64]

影響とその後編集

 
織田信長

武田氏編集

従来信玄は北条氏に対し駿河侵攻の理由を「今川氏と上杉氏が武田を挟撃しようと画策していたため」と説明していたが[65]、結果としてその北条氏は今川氏を支援する立場となったため講和関係を結べず、更に元亀元年(1570年)10月に家康は武田との同盟破棄を宣言したため[66]、徳川との亀裂も生じる結果となった。

この間信長は執り成しに動かなかったため、これが織田信長との同盟破棄の遠因となったとする向きもある[67]

北条氏編集

元亀2年(1572年)12月に武田氏・北条氏間で甲相同盟が締結されたため、北条氏と上杉氏は手切となった。尚、北条氏と武田氏は天正7年(1579年)には再び駿河を巡って抗争している[68]

今川氏編集

今川氏真は駿河侵攻の最終局面で、未だ味方として軍役奉公している旧今川家臣らに「暇状」[注釈 13]を出している[69]。その面々は三浦八郎左衛門尉[原 19]・冨永右馬助[原 20]三浦弥三[原 21]富士信通[原 22]三浦元政[原 23]らであった。

氏真は甲相同盟後に直ちに相模を出国したと従来考えられてきたが、今川義元の十三回法要を元亀3年(1572年)5月19日に相模で行っており、香語から相模に居住していたことが知られる[70]。一方政治的には氏真による駿河支配に関わる発給文書は元亀4年(1573年)2月7日以降確認されないため、駿河に対する影響力は絶たれている[71]。その後伊豆に蟄居した可能性が指摘され、天正元年(1573年)8月には浜松に居たとされる[72]

氏真は織田氏を頼り天正3年(1575年)3月16日に信長の元に出仕しているが、背景として信玄の死去により駿河奪還を視野に入れたためではないかとする見解がある[73]。氏真は同年の長篠の戦いで織田方の後詰として従軍し、同年7月にも武田方の諏訪原城(後の牧野城)攻めに参加し、その後牧野城主となり「氏真衆」を率いている。また、未だ警戒すべき存在として武田方から認識されていた[原 24][74]

甲州征伐の際も氏真は徳川軍に同行しており、また駿河侵攻で徳川に召し抱えられた旧今川家臣が氏真に再仕官を求めるなど、未だ影響力を保持していたとされる[75]

結果として氏真は、対武田氏としての軍事行動を行う立場の中で、同氏の滅亡を見届けることとなった。

脚注編集

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注釈

  1. ^ 永禄6年(1563年)に家康と名乗り[3]、永禄9年(1566年)には徳川に改姓[4]
  2. ^ 平山優は武田・織田同盟(甲尾同盟)の方針が決定的な契機となり、信玄と義信との関係は険悪化したとする(『武田信玄』51-52頁、吉川弘文館、2006)
  3. ^ 今川領を分割し大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏が得るとするもの
  4. ^ なお、氏政は武田信玄の娘である黄梅院を正室に(その間に儲けた北条氏直が後に当主となる)していたが、氏政は離縁して妻を武田家へ送り返したと伝えられている。しかし、近年これは1970年代に初めて登場した話で歴史的な根拠はないとする説が出されており、黄梅院は小田原城に留め置かれてそのまま死去したと考えられている(浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」1-13頁『武田氏研究』第59号、2019年)
  5. ^ 現在の静岡県富士宮市一帯
  6. ^ 現在の静岡県富士宮市上野
  7. ^ 永禄12年4月7日付「武田信玄条目」。外交文書である武田氏の条目において朱印を用いることが通例であるが、当文書では信玄の署名花押が据えられた書判状の形式であり、書札礼上の厚礼である点が指摘される
  8. ^ 志太郡益津郡一帯のことで駿河国中西部にあたる
  9. ^ 4月に元号を元亀に改元
  10. ^ 静岡県富士宮市周辺
  11. ^ 富士川以東の地域
  12. ^ 家康の誓詞提出と信玄の血判状提出が判明する2月16日付の古文書(年不詳)があり、これらは家康の抗議に関するものと推測され、結果永禄12年に比定されている[58]
  13. ^ 内容は今川家に対するこれまでの奉公に対する感謝と、この先何処に出仕しても良いという意思を示した感状

原典

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  2. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 1134
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  4. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 1887
  5. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2336
  6. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2338
  7. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1396
  8. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1397
  9. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 1225
  10. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2375
  11. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 1235
  12. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2402
  13. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2403
  14. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1471
  15. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1485
  16. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1480
  17. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 1357
  18. ^ 『戦国遺文』武田氏編 1484
  19. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2483
  20. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2489
  21. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2492
  22. ^ 『戦国遺文』今川氏編 2493
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出典

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  69. ^ 前田(2001) pp.7-8
  70. ^ 前田(2001) p.10-11
  71. ^ 久保田昌希『戦国大名今川氏と領国支配』吉川弘文館、2005
  72. ^ 長谷川(2020) pp.261-262
  73. ^ 長谷川(2020) p.266
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  75. ^ 長谷川(2020) pp.269-277

参考文献編集

  • 前田利久「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年、 58-87頁。
  • 前田利久「武田氏の駿河侵攻と諸城」『地方史静岡』第22号、1994年、 89-118頁。
  • 前田利久「後北条氏庇護下の今川氏真について」『地方史静岡』第29号、2001年、 1-16頁。
  • 黒田基樹 『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001年。ISBN 978-4-87294-194-4 
  • 大石泰史 『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』高志書院、2017年。ISBN 978-4-86215-171-1 
  • 財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所 『庵原城跡』2010年、1-62頁。 
  • 小笠原春香 『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院〈戦国史研究叢書17〉、2019年。ISBN 978-4-86602-068-6 
  • 長谷川幸一「天正元年以降における今川氏真の政治的地位」『論集戦国大名今川氏』2020年、 257-286頁、 ISBN 978-4-86602-098-3
  • 久保田昌希・加藤哲「確認された王禅寺所蔵「北条氏照・氏規連署書状」について」『川崎市文化財調査集録』第55号、2021年、 1-16頁。
  • 丸島和洋「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」『武田氏研究』第65号、2022年、 1-21頁。