伊東 治明(いとう はるあき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将旗本。実父は金森長近とされる。

 
伊東治明
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 元和2年12月22日1617年1月29日
別名 伊藤治明
官位 掃部助
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家康
氏族 金森氏伊東氏
父母 父:金森長近[1]
養父:伊東信直(掃部助、甲斐守)(豊臣氏家臣)
兄弟 金森長則治明金森長光肥田忠政
小出吉政正室、(金森重頼[2]
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慶長13年(1608年)に徳川家康に仕え、2,500石を賜った。慶長15年(1610年)1月2日、豊臣秀頼の名代として徳川家康に年頭の挨拶をした(徳川実紀)。大坂の陣に従軍し、義兄弟の金森可重[3]と共に岸和田城主の小出吉英[4]の加勢として、戦闘に参加している。[5]

元和2年(1616年)12月22日、別所孫次郎宅で喧嘩となり、別所の家人によって斬り殺された。この時、仲裁に入った桑山一直が負傷している。この事で長近の男系子孫は、断絶した[6]

子孫 編集

飛騨高山藩3代藩主の金森重頼は、実は治明の子であるとする史料がある。治明の父の金森長近は自身の後継ぎとして、長男などに先立たれたため、自身とは全く血縁の無い養子の可重に相続させた。2代目の可重は複数いた自分の実子には継がせず、長近の血縁上の孫である重頼を養子に迎えて跡を継がせたことになる。


脚注 編集

  1. ^ 『断家譜』『東武実録』に記述あり
  2. ^ 『断家譜』『金森家譜』『東武実録』。
  3. ^ 飛騨高山藩2代藩主の可重は、初代金森長近の養子。一方治明は長近の実子である。
  4. ^ 治明の娘婿が小出吉政。その子の吉英は治明の孫にあたる。
  5. ^ 小出信野守吉親小出大和守吉英伊藤掃部助治明金森出雲可重、岸和田の軍功御感の旨つたふ。」(徳川実紀、慶長20年5月4日条)
  6. ^ 『『東武実録』』 第一巻、早稲田大学図書館、貞享元年。 

参考文献 編集

  • 日本人名大辞典(講談社)
  • 断家譜(伊東姓で表記され、治明表記はなく掃部某となっている。)