佐多忠隆
来歴・人物
編集鹿児島県出身。佐多直正の次男として生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学。七高時代は佐野博らとともにサークル「鶴鳴会」(かくめいかい)に参加[1]。東大では(後期)新人会で活動し、1928年に卒業。その後第2次近衛内閣のもとで企画院調査官に就任し勝間田清一、和田博雄とともに同政権の「経済新体制」の策定に関与するが、企画院事件により治安維持法違反の嫌疑で検挙、投獄された。
第二次世界大戦後は片山内閣の経済安定本部財政金融局長などを経て1950年6月、第2回参議院議員通常選挙で鹿児島選挙区に日本社会党から出馬し当選。以降1956年7月の第6回参議院議員通常選挙まで連続3期にわたり当選し、参院懲罰委員長のほか党では外交委員長、国際局長などを歴任して「政策通」として知られ、左派社会党書記長に就任した和田を勝間田とともに補佐した。1968年7月の第8回参議院議員通常選挙で落選。
家族
編集佐多家は鹿児島県士族で、知覧島津家第18代当主島津久峰(薩摩藩第5代藩主島津継豊三男)から分かれた傍流である。陸軍中将の佐多武彦、旧制府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部の前身)学長を務めた佐多愛彦はそれぞれ忠隆の叔父である。
脚注
編集参考文献
編集- 佐多忠隆記念集企画編集委員会編 『雷魚のかば焼 佐多忠隆の歩んだ道』 北泉社、1981年。
関連項目
編集外部リンク
編集議会 | ||
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先代 辻武寿 |
参議院懲罰委員長 1962年 - 1963年 |
次代 森元治郎 |