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佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)は、奈良県奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。

佐紀石塚山古墳
所属 佐紀盾列古墳群
所在地 奈良県奈良市山陵町字御陵前
位置 北緯34度42分0.49秒
東経135度47分14.65秒
座標: 北緯34度42分0.49秒 東経135度47分14.65秒北緯34度42分0.49秒
東経135度47分14.65秒
座標: 北緯34度42分0.49秒 東経135度47分14.65秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長218m
埋葬施設 (推定)竪穴式石室
出土品 鏡・玉・剣
築造時期 4世紀末頃
被葬者宮内庁治定)第13代成務天皇
陵墓 宮内庁治定「狭城盾列池後陵」
特記事項 全国第26位の規模[1]
地図
佐紀石塚山古墳の位置(奈良市内)
佐紀石塚山古墳
佐紀石塚山古墳
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成務天皇狭城盾列池後陵 拝所

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇に治定されている。

目次

概要編集

佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)の西に接する前方後円墳で、墳丘は南面している。全長218.5メートル、後円部の径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル規模である。墳丘は三段に築成され、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。

周濠編集

前方部の前面をのぞいて、周濠の幅は全体に狭いが、ことに東側では極端に狭く、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の後円部の周濠が当古墳のくびれ部にくいこんだ状況である。佐紀陵山古墳が先に築造されていたためであろうが、どのような理由から、このように接近させて古墳を築造させたのか不明である。佐紀陵山古墳との時期差は数十年の差はないようであるので、両古墳の被葬者には親族関係など特別な関係が存在したのかも知れない。周濠外には、北から東北にかけて3基の陪塚があって、順次い号、ろ号、ほ号と名付けられている。

石室編集

江戸時代の記録によると、後円部に竪穴式石室長持形石棺があることが推定される。また鏡、玉、剣などが盗掘されたらしいが、詳細については不明である。

被葬者編集

佐紀石塚山古墳は成務天皇陵に治定されているが、「続日本後紀」によると神功皇后狭城盾列後陵と間違えられた時期があり、[2]843年承和10年)、奇異があることにより、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されている。

平安時代と江戸時代の盗掘事件編集

扶桑略記には1063年(康平6年)、興福寺僧の静範らが成務天皇陵の副葬品を盗掘し、事件が露見し連座した16人が流刑になった事件を記している。これは、御陵に関する記録としては珍しいものである[3]。 また、時代が下って1844年(天保15年)と1848年(嘉永元年)にも盗掘を受け、石棺から多数の勾玉が持ち出され、奈良奉行所が取り調べた記録があるという[4]。 奈良奉行所の記録によると同じ時期に付近の五社神古墳宝来山古墳も盗掘に受け、付近の住人ら12名が佐紀石塚山古墳を含む3箇所の古墳の盗掘犯として捕らえられた。首謀者とみられる4人は獄死し、これら4名の遺体は塩詰にして奈良市中を引き回しの上、磔に処せられたという。幕末の公武合体推進のために陵墓の整備を進めていた幕府が、見せしめとして犯人を厳罰に処したことが窺える[5]

築造時期編集

佐紀陵山古墳など他古墳との位置関係や墳丘の形から古墳時代前期末頃に属するのではないかと考えられている[6][7]

参考文献編集

  • 小泉俊夫「成務天皇陵」『奈良県史3考古』 奈良県史編集委員会 名著出版 1995年 230頁
  • 森浩一「佐紀陵山古墳の盗掘事件と後円部の様子」『天皇陵古墳への招待』 筑摩書房2011年117頁‐124頁
  • 茂木雅博「幕末帝陵発掘事件の顛末」『日本古代史[王権]の最前線』 新人物往来社 1997年 370頁-377

脚注編集

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  1. ^ 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2018年5月13日更新版)。
  2. ^ 「毎有神功皇后之祟、空謝成務天皇陵」、『続日本後紀』、承和十年四月条
  3. ^ 小泉「奈良県史」(2011)p.230
  4. ^ 森浩一「天皇陵古墳」(2011)p114.
  5. ^ 茂木「幕末帝陵」(1997)pp.370-377
  6. ^ 小泉「奈良県史」(2011)p.230
  7. ^ 「天皇陵古墳」(2011)pp.37‐47

外部リンク編集