保田 与天(やすだ よてん、1889年明治22年)月日 - 1969年昭和44年)1月9日)は、和歌山県出身のゴルファーゴルフ場設計者。

 保田 与天 
Yoten Yasuda
基本情報
名前 保田 与天
生年月日 1889年????
没年月日 1969年????
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
経歴
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人物 編集

保田与天は、1889年明治22年)、和歌山県に生まれ、1917年大正6年)、東京高等工業学校建築科(現・東京工業大学)を卒業した[1]。卒業後、米国実費精算式請負法の研究などの仕事についていた[1]

その後、大倉土木(現・大成建設株式会社)に入社した保田与天は、1923年(大正12年)に、満州撫順に着任した[1]。この時、ゴルフコースを造ったことがゴルフとの関わりとなった[1]。また、「宝塚ゴルフ倶楽部」所属の村木章プロ(福井覚治プロの甥)にレッスンを受け、満州の「星ヶ浦ゴルフ場」のクラブ選手権や宝塚ゴルフ倶楽部で優勝した[1]

1929年昭和4年)、帰国後、宝塚ゴルフ倶楽部のメンバーとなり、同クラブのクラブチャンピオンになった[1]1933年(昭和8年)、関東州大連の星ヶ浦ゴルフ場のメンバーとなり、小野光一からゴルフを習った[2]。その時、クラブ選手権を2連覇し、1934年(昭和9年)、宝塚ゴルフ倶楽部のクラブ選手権にも優勝した[1]

勤めていた大成建設株式会社を退職し、選手も引退後、1946年(昭和21年)よりコース設計家の道を歩むことになる[1]1960年(昭和35年)、三重県三重郡菰野町の「三重カンツリークラブ」の隣接地に住まいを構え、コース管理や経営の指導を行っている[1]。保田与天が設計したコースは7コースある[1]

保田与天のコース設計は、周囲の山々の借景を巧みに利用して、自然のままの傾斜を生かした、個性的なコース設計が特徴である[1]。コースは、それぞれが個性的でプレーに変化をもたらしている、代表的なホール三重カンツリークラブの12番ホールは、正面に鈴鹿山脈御在所岳がそびえ、迫力あるホールである[1]

主な設計コース 編集

保田与天の設計図 編集

エピソード 編集

  • 保田与天は建築家らしく絵心があった、ゴルフ場の俯瞰レイアウト図を自ら描いたので、井上誠一が唯一感心したコース設計家という伝説が残されている[3]
  • 保田与天の「与天」は珍しい名前だが、これは俳号で、『与』は「あたえる」「あずかる」という意味があり、また「一緒に力を合わす」「仲間になる」の意味もある。 おそらく、与天とは、天との一体化、「世界のあらゆる自然との融合」のニュアンスであったと考えられている[2]

脚註 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「自然のハザードを利用し、ゴルファーの征服する努力と興味を高めた」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年3月3日閲覧
  2. ^ a b 「有馬カンツリー倶楽部」、プレスリリース、2021年3月3日閲覧
  3. ^ 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「自然のハザードを利用し、ゴルファーの征服する努力と興味を高めた」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年3月3日閲覧

著書 編集

  • 『芦屋の十年 1952-1962』、「芦屋の人柱 保田与天」、芦屋 芦屋カンツリー倶楽部、1963年、2021年3月3日閲覧

関連文献 編集

  • 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「自然のハザードを利用し、ゴルファーの征服する努力と興味を高めた」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2021年3月3日閲覧