倉橋泰吉
倉橋 泰吉(くらはし やすよし、慶長4年2月26日[1](1599年3月22日) - 寛文10年9月17日[2](1670年10月30日))は、江戸時代前期の日本の公卿。安倍姓倉橋家初代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年2月26日(1599年3月22日) |
死没 | 寛文10年9月17日(1670年10月30日) |
官位 | 従二位非参議 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇→後西天皇→霊元天皇 |
氏族 | 倉橋家 |
父母 | 父:土御門久脩 |
兄弟 | 土御門泰重、倉橋泰吉、五辻斉仲 |
妻 | 冷泉為将女 |
子 |
実子:倉橋泰純 養子:倉橋泰貞 |
生涯
編集土御門久脩の次男として誕生。慶長17年12月13日、14歳で元服し、同日に蔵人となり、左近衛将監に任官される。このとき、倉橋と号して倉橋家を創設したという。家号は遠祖・安倍倉梯麻呂にちなんだとされる。
慶安2年正月12日(1649年2月23日)には、同月5日に従三位に叙された位記を賜う。これによって公卿入りを果たした。このとき51歳である。翌月には民部卿となり、9年間務めた。寛文10年(1670年)、72歳で薨去した。
官歴
編集- 慶長17年12月13日(1613年2月2日)、蔵人、左近衛将監
- 寛永5年1月6日(1628年2月10日)、従五位下
- 寛永5年1月11日(1628年2月15日)、左馬助
- 寛永6年1月5日(1629年1月29日)、従五位上
- 寛永9年1月5日(1632年2月24日)、正五位下
- 寛永13年1月5日(1636年2月11日)、従四位下
- 寛永17年1月5日(1640年2月26日)、従四位上
- 寛永21年1月5日(1644年2月12日)、正四位下
- 慶安2年1月5日(1649年2月16日)、従三位
- 慶安2年2月4日(1649年3月16日)、民部卿
- 承応4年1月5日(1655年2月11日)、正三位
- 明暦3年11月22日(1657年12月26日)、民部卿を辞す
- 寛文5年12月23日(1666年1月28日)、従二位