元 寿興[1](げん じゅこう、生没年不詳)は、北魏皇族は寿興。諱は昞、昺、景、秉とも書かれる。

経歴編集

城陽公拓跋忠の子として生まれた。若くして聡明で学問を好んだ。宣武帝の初年、徐州刺史となったが、官にあって収奪や暴行をおこない、人心を失った。かれの従兄の元暉は、寿興を憎んでおり、宣武帝に寿興の非行を訴えた。宣武帝の命を受けて尚書の崔亮が調査に向かった。崔亮は元暉の意を受けて、3人の寡婦に言い含めて、寿興のために婢にされたと誣告させた。寿興は外弟の薛修義の車に乗って脱出し、河東郡に入って、薛修義の家にかくまわれた。恩赦にあって、宣武帝と面会し、元暉の讒言であったと訴えたが、宣武帝に聞き入れられなかった。

かつて寿興が太子中庶子であったとき、王顕東宮につとめていたが、寿興は王顕をいやしんで、公の事件にかこつけて杖罰30回を加えた。王顕が宣武帝に気に入られて、御史中尉となると、寿興が家でことあるごとに怨言を吐き、朝廷を誹謗していると上奏した。このとき宣武帝は深酒をして前後不覚であったため、上奏をそのまま裁可して、寿興の死刑を命じた。刑が執行される日、王顕は自ら赴いてこれを見に行った。寿興は「洛陽の男子、姓は元、名は景。道ありて時無く、その年永からず」と墓誌銘を自作した。「わたしの棺の中に100枚の紙と筆2本を入れてくれ。わたしは地下で王顕を訴えたいのだ。もし孝文帝の霊が知ったならば、100日のうちに必ずや王顕の命を取ってくれよう。もし知られることがなければ、また何の惜しむに足りようか」と息子に遺言した。515年延昌4年)、宣武帝が死去すると、王顕もまもなく殺された。当時の世論は、寿興の死も前任の御史中尉(王顕)による讒言弾劾によるものとみなした。霊太后が臨朝称制すると、三公郎中の崔鴻が寿興の名誉回復を求める上疏をおこない、冤罪はそそがれて、豫州刺史の位を追贈された。は荘といった。

脚注編集

  1. ^ 魏書』巻15中華書局校勘記によると、「盛の弟を寿興とするのは、『北史』巻15も同様である。『通志』巻84本伝では盛の弟を秉とし、字を寿興とする。『魏書』と『北史』の本伝以下が「寿興」とするところは、『通志』はみな「秉」としている。『魏書』本伝は寿興が死に臨んで「洛陽の男子、姓を元、名を景」と墓誌を自作したとするが、『通志』では「景」のところをまた「秉」としている。『漢魏南北朝墓誌集釈』元智墓誌図版51を調べると、「祖父の昺は、使持節・散騎常侍・都督徐州諸軍事・平東将軍・徐州刺史・宗正卿となった」とする。先行研究によると「昺」とは寿興のことである。また『魏書』巻66崔亮伝によると、崔亮によって弾劾された徐州刺史を「元昞」と呼んでいる。寿興の名は「昞」であり、「昺」と同じであることは、疑うべくもない。『北史』は諱である「昞」を避けて字で称し、自作墓誌の部分も「昞」から響きのよい「景」と改めた。当時の人名や地名は同音字が常用されており、『通志』が「秉」とするのは、鄭椎が同音字によって改めたものである。『魏書』の原文は、崔亮伝により「昞」と改められるべきである」という。

伝記資料編集