内藤 義稠(ないとう よししげ)は、江戸時代中期の大名陸奥国磐城平藩の第5代藩主官位従五位下左京亮延岡藩内藤家宗家5代。

 
内藤義稠
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年(1697年
死没 享保3年5月29日1718年6月27日
官位 従五位下左京亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
陸奥磐城平藩
氏族 内藤氏
父母 内藤義孝土屋政直の娘
兄弟 義覚義稠松平信岑正室ら
養子政樹
テンプレートを表示

略歴 編集

第4代藩主・内藤義孝の次男。母は土屋政直の娘。元禄12年(1699年)9月16日生まれともされる[1]

兄・義覚が早世したため嫡子となり、正徳2年(1712年)に父・義孝が病死したためその跡を継いだ。しかし藩政に見るところもなく、享保3年(1718年)に早世した。嗣子がなかったため、従弟にあたる政樹(伯父内藤義英の長男)が跡を継いだ。

死因は病死とされるが、松賀族之助松賀孝興父子による毒殺説もある。

系譜 編集

父母

婚約者

養子

脚注 編集

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク)