労働者農民党
労働者農民党(ろうどうしゃのうみんとう)とは、労働者と農民の共闘を目指した日本の社会主義政党(革新政党)である。1948年から1957年まで存続した。
労働者農民党 | |
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成立年月日 | 1948年12月2日[1] |
前身政党 | 日本社会党[2] |
解散年月日 | 1957年1月16日[2] |
後継政党 | 日本社会党[2][3] |
政治的思想・立場 |
社会民主主義[1] 社会主義[2][3] |
概要
編集戦後の一時期、日本社会党を除名された最左派により結成された、非日本共産党系の左翼政党。党首の名称を毛沢東にあやかり主席という名称にし、外交的には親中国派の立場を取り、国内的には非共産党系左翼政党として行動した。
歴史
編集初代主席は黒田寿男。当時の社会党は、保守政党の民主党、国民協同党との連立政権を組んでいた。しかし、社会党内の左派は政権から事実上締め出され、党内野党となっていた。1948年7月7日、黒田寿男ら6名が芦田内閣の予算案に造反して反対したため、党を除名。12月2日、他の離党者も合わせて労働者農民党を結成した。結党時には、衆参18人の勢力となっていた。
結党宣言では社会党を「階級闘争を放棄し(中略)ブルジョア第三党に転落した」とマルクス主義の立場から痛烈に批判。一方、共産党には「日本民主革命のために闘いつつある」と一定の評価をしつつ、「独善的偏向をもち(中略)極左的闘争主義の傾向が見られ、この結果勤労大衆の利益は日本共産党だけでは確保されない」と結論づけた。このような認識をふまえ、新しい社会主義政党を結成し、保守反動に対抗する勤労大衆の統一戦線を形成するとした。
その後の議会での党勢は伸びず、また共産党が武装闘争路線を放棄したことで、党の独自性も薄れた。1955年の左右社会党統一に伴い社会党復帰を目指したが、社会党右派の反対で果たせなかった。1957年1月16日解党し、3月に元労農党の議員は日本社会党に復帰した。
ちなみに、1952年12月9日の衆議院本会議で可決された「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」に、唯一党として反対したのが労農党である(日本共産党が議席を失っていたため)。
歴代労働者農民党主席一覧
編集代 | 主席 | 在任期間 | |
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1 | 黒田寿男 | 1948年(昭和23年)12月2日 - 1957年(昭和32年)1月16日 |
党勢の推移
編集衆議院
編集選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
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(結党時) | 11/- | 466 | |
第24回総選挙 | 7/45 | 466 | |
第25回総選挙 | 4/11 | 466 | |
第26回総選挙 | 5/12 | 466 | |
第27回総選挙 | 4/16 | 467 |
参議院
編集選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 7/- | - | 250 | |
第2回通常選挙 | 2/5 | 3 | 250 | |
第3回通常選挙 | 0/3 | 2 | 250 | |
第4回通常選挙 | 0/3 | 0 | 250 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
脚注
編集- ^ a b “ろうどうしゃのうみんとう【労働者農民党】”. コトバンク. 世界大百科事典 第2版. 2019年10月11日閲覧。
- ^ a b c d “労働者農民党 ろうどうしゃのうみんとう”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年10月6日閲覧。
- ^ a b 吉田健二. “労働者農民党 ろうどうしゃのうみんとう”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年10月11日閲覧。
参考文献
編集- 国史大辞典編集委員会編『國史大辭典 14』(1993/4 吉川弘文館 ISBN 4642005145 神田文人による記事より)