北条 貞義(ほうじょう さだよし)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。豊前田川郡糸田庄福岡県田川郡糸田町)を領したので、糸田 貞義(いとだ さだよし)とも呼ばれる。

 
北条貞義 / 糸田貞義
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 建武元年(1334年3月?
別名 金沢貞義、糸田貞義、左近大夫将監
官位 左馬頭左近将監
幕府 鎌倉幕府 豊前守護
氏族 北条氏金沢流
父母 父:北条政顕
兄弟 種時、家政、顕茂、顕義、師顕、時継、高政貞義
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生涯 編集

元弘元年(1331年)9月、元弘の乱において、北条高時が畿内に派遣した討手のなかに糸田左馬守(貞義)の名がある[1]

建武元年(1334年)1月、貞義は実兄の高政とともに北九州で挙兵、北条残党を糾合して大きな反乱を起こした(規矩・糸田の乱)。貞義は筑後三池郡堀口で残党を集めて少弐氏大友氏らに抵抗したが、兄に先立って3月の段階で鎮圧され[2]、高政も7月に鎮圧されている[3]

以後の貞義の記録は存在しないため没年は不明であるが、この年には鎌倉など各地で北条残党の抵抗があって北条一族の殲滅が徹底されていたため[4]、貞義も殺害されたものと思われる。

脚注 編集

  1. ^ 『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」
  2. ^ 『金沢北条氏の研究』41頁
  3. ^ 『金沢貞顕』152頁。
  4. ^ 阿蘇治時大仏高直も同年に処刑されている。

参考文献 編集

関連項目 編集