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千葉 秀胤(ちば ひでたね)とは、鎌倉時代前期から中期の御家人千葉常秀の子。通称は境 兵衛次郎(さかい ひょうえじろう)。「境 秀胤」「上総 秀胤」と呼ばれる場合もある。上総千葉氏第2代当主。

 
千葉秀胤
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 未詳
死没 宝治元年6月7日1247年7月10日
別名 境 兵衛次郎、境秀胤、上総秀胤
官位 従五位下上総権介従五位上
幕府 鎌倉幕府評定衆
主君 源実朝藤原頼経頼嗣
氏族 桓武平氏良文流(千葉氏上総氏境氏
父母 父:千葉常秀、母:不詳
兄弟 秀胤時常
正室:三浦義村の娘、継室:北条時房の娘?
時秀政秀泰秀景秀

目次

生涯編集

仁治元年(1240年)に従五位下上総権介に任ぜられ、将軍九条頼経の二所参詣に供奉している。寛元元年(1243年)には従五位上に叙せられ、翌年には評定衆に加えられるが、千葉氏では唯一の例である。

幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸[1]を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時藤原定員後藤基綱三浦光村藤原為佐三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権北条経時と対抗した。寛元4年(1246年)に執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時・藤原定員が失脚すると、6月7日には千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の4名の評定衆が更迭、更に6月13日秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える[2]。これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている[2]

宝治元年(1247年)6月宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると、6月6日三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ、翌7日には千葉氏一族の大須賀胤氏東胤行(素暹、秀胤の3男・泰秀の義父)らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち、4人の息子をはじめとする一族郎党163名とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている[3]

なお、『吾妻鏡』によればその際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の時常も駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命された(『吾妻鏡』宝治元年6月11・17日条)が、これによって上総千葉氏は滅亡した。

脚注編集

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註釈編集

出典編集

  1. ^ 後の千葉頼胤。暦仁元年(1238年)生まれで、4歳で家督継承。秀胤が評定衆となった寛元2年当時は7歳。
  2. ^ a b 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.52
  3. ^ 『千葉県の歴史』中世P141及び『千葉氏』P164-165。

参考文献編集

書籍
史料
  • 『吾妻鏡』
先代:
境常秀
房総平氏歴代当主
-
次代:
滅亡
先代:
境常秀
上総氏歴代当主
-
次代:
滅亡