南里文雄

日本のジャズ・トランペット奏者、バンドマスター (1910-1975)

南里 文雄(なんり ふみお、1910年12月24日 - 1975年8月4日)はジャズトランペット奏者で、ルイ・アームストロングに「日本のサッチモ」とあだ名が付けられた。彼は、彼の母国外で名声をはせるようになった、とりわけ初期の日本のジャズ・ミュージシャンの一人であり、戦前と戦後、アジア最大のトランペッターであった。2010年まで続いていた日本のジャズ、「南里文雄賞」は、彼の名前に由来している。息子には、トランペット奏者の南里雄一郎(1931年3月21日 - 1985年6月23日)がいる。

南里 文雄
1948年
基本情報
出生名 南里 文雄
生誕 (1910-12-24) 1910年12月24日
日本の旗 日本大阪府
死没 (1975-08-04) 1975年8月4日(64歳没)
日本の旗 日本
ジャンル ディキシーランド・ジャズ
職業 トランペット奏者
担当楽器 トランペット
共同作業者 南里文雄とホット・ペッパーズ
有馬靖彦
沢田英二
ハナ肇
鈴木章治
井上良
ディック・ミネ
水野長次郎
チェリーランド・ダンス・オーケストラ
川口養之助
胡桃正和
土橋武夫
大西利之
谷口又士
蘆田満
七条好
中川徳三郎
飯山茂雄
高見高祥
関真次
リノ・フランカプロ

経歴

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大阪市南久宝寺町生まれ。1910年12月4日兵庫県神戸市生まれ[1]。父・欽太郎は鴻池銀行勤務[1]、母・琴子は広島の一流割烹「松月」の娘[1]。6人兄弟の末っ子で、生後4日にして父親が死去[1]。そのため、母親の実家広島、姉の婚家京都、兄の居る神戸など親類を転々とする[1]。神戸の高等小学校を卒業して、1925年に大阪の髙島屋少年音楽隊に入隊[1]。音楽隊の解散後、神戸のダンス・ホールで演奏し、1928年に19歳で上京。上京後、浅草電気館に出入りしていた井田一郎バンド(第2次チェリーランド)に加入。しかし、加入後僅か2ヶ月で飛び出してしまう。

1929年上海に渡りテディ・ウェザーフォードにピアノを師事。

1932年、船のバンドマンに加わってサンフランシスコへ渡る。同年、溜池フロリダ出演中の菊池滋弥バンドに入り、1934年には自己のバンド「南里文雄とホット・ペッパーズ」を結成。ディック・ミネダイナ吹込みに参加した。

1937年1940年には大連で暮らし、1937年にはペロケ舞踏場に進出。 度々帰国しては、レコード吹込みを行った。

1944年2月、召集を受け、久留米第48部隊衛生兵として入隊。

1946年、第1次ホットペッパーズを結成。同年に横浜の元町にオープンしたダンスホール「クリフサイド」を中心に活動を始める。

1948年ハナ肇市村俊幸らと第2次ホットペッパーズを再編。

1953年、突然視神経萎縮のため失明寸前になるという不幸に見舞われるが、同年8月カムバック。12月には、来日したルイ・アームストロングと共演。

1971年、亡きルイ・アームストロングを偲んでボビー・ハケットクラーク・テリーらとトランペット・ワークショップで共演。

1973年、ジャズ生活48周年記念リサイタルを開催。

1974年ベトナム人民支援ジャズコンサート開催。

1975年8月4日死去。享年64。

常にデキシー一筋で進んでいた南里だが、戦後の一時期バップに取り組んだこともあった。

出典

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  1. ^ a b c d e f 「トランペット50年 南里文雄さんが死の床で頼んだ最期の言葉」『週刊平凡』1975年8月21日号、pp.34-37

外部リンク

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