ジャズ: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式。西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノートシンコペーションスウィングコール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーションポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。

その表現形式は自由なものであり、初期からポール・ホワイトマンらの白人ミュージシャンが深くかかわり、演奏技法なども急速に発展した。20世紀後半には世界の多くの国々で、ジャズが演奏されるようになった。

目次

歴史編集

起源 - 1930年代編集

 
Duke Ellington, 1943年
 
Buddy Bolden, 1905年頃
 
Art Blakey, 1985年

ジャズは西洋音楽アフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアルブルースラグタイムの要素を含み、根底的には西アフリカ、西サヘルサハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。

ニューオーリンズが発祥の地[1]とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀に入ると、コルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、今日では「初代ジャズ王」と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない[2]

1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初の商業用レコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。

初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づくものといえよう。当初は独学でジャズを創作していった者も少なくなかったが、ジャズと音楽理論が融合するようになっていったのは、ジャズが黒人社会に広く普及し、古典的なヨーロッパの音楽理論を取得したアフリカ系黒人ミュージシャンがジャズに反映させていく時点からである。アメリカの禁酒法時代に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった[1]第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた[1]

1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。この背景には、人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールの存在があった[1]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになり、特に代表的なバンドリーダーの一人であるルイ・アームストロングの存在は、ジャズとヴォーカルとの融合という側面(アームストロングはトランペット奏者でありながら自ら歌も歌った)において重要な役割を果たした。

一方で保守層やファシズム政権等では、「黒人音楽」であり「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党アルフレート・ローゼンベルクはその急先鋒であり、ナチス・ドイツ時代には反ジャズが政府の公式な見解となり、1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は盛んに行われていた。また宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた[3]

1940年代以降編集

その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求める(あるいはスウィング・ジャズに反発する)ミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[2]。1940年代後半には、チャーリー・パーカーディジー・ガレスピー等が多くの録音を残し、1950年代には、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。

1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[4]

1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンセシル・テイラー等は、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名からフリー・ジャズという言葉が広まっていった[5]

1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[6]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、『リカード・ボサノヴァ』が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。

1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、『ビッチェズ・ブリュー』を大ヒットさせる。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成し、クロスオーバージャズ、さらには後にフュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。

1990年代以降編集

1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。一人の演奏家が様々なスタイルでの演奏を行なうことも多く、時には一回の演奏会で様々なスタイルでの演奏を行なうこともある。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズバージョンの演奏を行なったりしている。前衛的なジャズも伝統的なジャズも継続されている。

またハリー・コニック・ジュニア[7]等の歌手はポップスにジャズの要素を加えただけで「ジャズ・ミュージシャン」と呼ばれたり、ダイアナ・クラールノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンカート・エリングジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスやロック形式の音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも近年登場している。

フュージョンは1970年代に人気のピークを迎えたが、電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニージョン・アバークロンビージョン・スコフィールドE.S.T.等に受け継がれている。

各国でのジャズ史編集

日本における歴史編集

日本のジャズの歴史は、アメリカの音楽であるジャズを受容した歴史である。ジャズは洋楽の1ジャンルであり、ポピュラー音楽であり、戦前はダンス音楽であった。 日本はジャズ史以前に洋楽受容の歴史を積み上げた。軍楽隊の結成、学制による唱歌教育、音楽取調掛(東京音楽学校)の専門教育に始まり、著名な演奏家の来日、交響楽運動、カチューシャの唄に始まる流行歌、童謡運動、新しいメディア(ラジオ、レコード、映画)による音楽の普及へ続いた。 加えるなら、帝劇創設から浅草オペラへの流れ、興行資本によるレビュー、大学のサークルを中心としたアマチュア活動が、互いに影響を与えながら、独自の事情により個別に発展していった。

相倉久人の至高の日本ジャズ全史によると、アメリカからジャズが日本へ伝わった経路は三つあり、一つは太平洋航路の客船で旅客のために演奏していた楽団の奏者がアメリカの東海岸に到着後、楽譜や楽器を購入して、また生の演奏を聴く機会を得た事。明治末年、船の楽士の草分けである波多野福太郎たちが東洋汽船の地洋丸に乗り込んだ事に始まる。二つ目は、太平洋航路に旅客として乗り込み本場の音楽を聴いたブルジョワ階級の子弟。菊地滋弥や益田兄弟(益田孝の孫、益田太郎の息子たち)たちがこれにあたる。三つ目は、上海で演奏していたフィリピン人たちが来日した事だった。アルカンタラは神戸のオリエンタルホテルで演奏した。

演奏家は年齢的に若かった。この青年たちは少年音楽隊[8]とバンド屋[9]の出身者が多かった(詳細は後述)。彼等とは別にアマチュアや日本交響楽協会の奏者たちもラジオに出演、レコードの吹込でもジャズを演奏した。上海を経由して来日したフィリピン人や、ハワイ、米本土からも奏者が集まり本場のジャズを日本へ伝えた(上海の楽人たちについては榎本泰子の『楽人の都 上海』(研文出版)に詳しい)。1928年にラジオで二村定一が「アラビアの唄」を歌った。メジャーなレコード会社は1920代までに、ほぼ再編を終え、専属の作曲家、演奏家、歌手を揃えた。1930年代のスウィングジャズの流行はメディアのみならず、舞台のレビューやボードビルショーを彩った。瀬川昌久『ジャズで踊って』、毛利眞一『ニッポン・スウィングタイム』は社会全体でジャズが盛り上がった時代を日本のスウィングエラと呼んでいる。

前述したように、ジャズはポピュラー音楽であり、ダンス音楽であった。ポピュラー音楽は音楽を商品として大衆へ提供し利益を得る目的の事業から発生した。ここでのダンス音楽とはボールルーム・ミュージックである。ボールルームとは舞踏場のこと、社交ダンスを踊る場所である。ニューヨークには数百組の男女のペアが同時に踊ることの出来るボールルームが数軒あったとされる。ビッグバンドが編制されたのは演奏に必要なためであった。


ビッグバンドの魅力を生かすのは編曲の力に依る。固定的な和声(harmony)、ビートの進行は、即興演奏に表れる演奏家の個性を後退させたが同時に洗練され、都会化され、白人化された。モダンジャズを聴く音楽とすれば、スウィングジャズは踊る音楽であった。村上春樹はジャズのイディオムを散りばめたダンスミュージック(グレン・ミラー)に聴くべき価値を見いだせない観点があることを示しながら、当時の若者には男女が宵闇で語り合うための実用的な音楽だったのだろうと解している。 関東大震災以降に多くの演奏家が東京、神奈川から移った関西では道頓堀周辺のカフェーやダンスホールでジャズが演奏され、東京が復興すると、大阪市内のダンスホールが一斉閉鎖したこともあり、規制は無かった阪神間にダンスホールが建てられる一方、関西から上京する者が続いた。ダンスホールでは、客は店で購入したチケットと交換する代わりに、チケットダンサーと曲が演奏される、およそ3分の間だけダンスをした。上級者向けのフォックス・トロット、クイック・ステップの他にもタンゴ、ワルツを踊った。社会一般の情勢では都市の学生や俸給層を中心とした新中間層が形成されたのもジャズ普及の一因であった。しかし、1932年の第一回ラジオ意識調査にあるように、日本人の多数は浪花節を好んだ。ジャズは好きな番組の順位では最下位だった。

1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。1943年1月には情報局と内務省により「米英音楽作品蓄音機音盤一覧表」が全国の関係団体、具体的には警察関係、飲食店組合、音楽団体に配布されジャズレコードの演奏禁止となり、更にレコードの自発的提出、治安警察法第十六条の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図った(出典は倉田喜弘「日本レコード文化史」) 小川隆夫『証言で綴る日本のジャズ』(駒草出版)では、瀬川昌久、北村英治は、押し入れの中でこっそり聴いていたと証言している。 最終的には日本音楽文化協会、所謂「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会による軽音楽改革により、実質的にジャズの演奏は禁止となった(音文については戸ノ下達也『音楽を動員せよ』(青弓社)に詳しい)。 この弾圧下にあって、ジャズメンの活動は各種の慰問団、対敵謀略放送、軽音楽としての活動などがあるが詳細は後述する。

戦後、ジャズは最初に誰が演奏したのかは不明だが、戦後の日本のジャズが始まったことを告げたのはニューパシフィックジャズバンドであり、テナーサックスの名手として知られた松本伸であった。戦後の進駐軍と彼等が運営したクラブ、クラブを運営する側がsupport (調達)したサービスの一つに音楽があり、日本人立ち入り禁止(Off Limit )の空間で演奏した音楽がどのように日本へ戻っていったかは東谷護『進駐軍クラブから歌謡曲へ』などがある。戦後のジャズ詳細は後述する。 松本伸を含めた戦前のジャズメンについては内田晃一の『日本のジャズ史』が詳しい。名前を挙げれば、波多野福太郎、井田一郎、前野港造、芦田満、松本伸、橋本淳、菊地滋弥、渡辺良、多忠修、南里文雄、後藤博、斎藤広義、レイモンド・コンデ、フランシスコ・キーコ、東松次郎、谷口又士、中沢壽士、杉原泰蔵、角田孝、田中和男、飯山茂雄、山口豊三郎、ディック・ミネ、森山久、水島早苗、べティ稲田、川畑文子、ハット・ボンボンズ、服部良一、仁木他喜雄、他多数であり、紙恭輔、堀内敬三、野川香文、津田又太郎もジャズに貢献した。

1923年大正12年)4月に日本で初めてのプロのジャズバンドが神戸で結成された[10][11]宝塚少女歌劇団オーケストラ出身の井田一郎をリーダーとする「ラッフィング・スター・ジャズバンド」(「井田一郎とラッフィング・スターズ」)である。その後1925年(大正14年)に井田は大阪チェリーランド・ダンス・オーケストラを結成し活動するが、大正天皇崩御を理由に大阪市がダンスホールの営業を1年間停止したため、大阪を拠点としていた井田や南里文雄ら多くのプロのジャズマンは東京に拠点を移していった。戦前に発売された国産ジャズレコードの中には著しくレベルの低いものも多数見受けられるが、それでも着実にファンを増やしていった。歌手としては二村定一淡谷のり子バートン・クレーンディック・ミネ川畑文子中野忠晴ベティ・稲田らが、ボーカルグループではコロムビア・ナカノ・リズムボーイズやアメリカのボードヴィルの影響を受けたあきれたぼういずがそれぞれ人気を集め、作曲家としては服部良一がジャズの要素を用いた数多くの曲を生んだ。(従って、一部で言われている`ジャズは明るい戦後文化の象徴`というのは間違いである)

太平洋戦争中は禁令 [12]や自主規制などでジャズは鳴りを潜めたが、学生や軍人の中でも密かにレコードを聴いて楽しむ者も多かった。特攻隊員の川柳に「アメリカと戦ふ奴がジャズを聞き」「ジャズ恋し早く平和が来ればよい」などと遺されていることからも分かる。戦後多くの元陸海軍軍楽隊員がジャズ畑へ転向した。戦後の日本には米軍基地が置かれ、ジャズを筆頭とするアメリカ音楽は大々的に日本へと入ってきた。(戦後の人々は戦前と文化的に断絶されたためか、ジャズは戦後世代の象徴としているが、戦前にもジャズはあった)

戦後は、服部良一が作曲したブギウギ笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。つづいて、江利チエミジョージ川口ティーブ釜萢ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである[13]。また、神戸や阪神間の学生を中心にデキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。

1956年穐吉敏子が、1962年渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[14]1963年には松本英彦モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。

1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[15]

1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行金井英人富樫雅彦日野皓正菊地雅章山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里ジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身のフリー志向の原点だと述べる[16]

1970年代初め頃からフリー・ジャズが盛んになってくる。1970年代後半になると、国鉄(現JR中央線沿線(西荻窪吉祥寺八王子など)を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂プロデューサーが「中央線ジャズ」という言葉を提唱[6]

1965年からびわ湖バレイ・ジャズ・フェスティバル1977年からライブ・アンダー・ザ・スカイ1980年からオーレックス・ジャズ・フェスティバル1981年から神戸ジャズストリートなど、ジャズ・フェスティバルが催されるようになった。

主なスタイル/ジャンル編集

過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。

何がニューオーリンズ・ジャズであり、何がディキシーランド・ジャズであるかという明確な合意はないが、初期の様に黒人によって演奏されるのがニューオーリンズ・ジャズ、白人によって演奏されるのをディキシーランド・ジャズと区別するのが一般的である。

アーティスト編集

著名なジャズ評論家編集

著名なジャズクラブ等編集

  • コットン・クラブ(1923年-1940年、ニューヨーク)ハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。
  • ヴィレッジ・ヴァンガード(1935年-、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。
  • ミントンズ・プレイハウス(1938年-1974年、ニューヨーク)テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。
  • カーネギー・ホール(1891年-、ニューヨーク)マンハッタン地区にあるコンサートホール。1938年ベニー・グッドマンにより史上初のジャズ・コンサートが開催された。
  • バードランド(1949年-1965年、ニューヨーク)マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。
  • プリザベーション・ホール(1960年代-、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。
  • ブルーノート(1981年-、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。

ジャズ喫茶編集

ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。

著名なジャズ・フェスティバル編集

三大ジャズ・フェスティバル編集

北アメリカ編集

ヨーロッパ編集

日本編集

開催終了編集

著名なジャズ教育機関編集

ジャズに関するその他の作品・関連メディア編集

TV・ラジオ番組編集

ジャズ専門衛星放送編集

ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信)編集

ラジオ放送編集

地方局
ラジオ放送終了番組
テレビ放送終了番組
  • 純情きらり(NHK・朝の連続テレビ小説) - ヒロインがジャズピアニストを目指すストーリーであり、ジャズのスタンダードナンバーやジャズ風にアレンジされた唱歌などが劇中で頻繁に演じられていた。

映画編集

アーティスト伝記物、もしくはストーリー・音楽ともにジャズと関わりの深い作品

洋画編集

伝記物
記録映画
フィクション

邦画編集

伝記物
フィクション
ジャズのみを映画音楽にしている作品

アニメ編集

  • その他

参考文献編集

  • 『ジャズの歴史 その誕生からフリー・ジャズまで』 Frank Tirro、音楽之友社、1993年。ISBN 4276232511
  • 『ジャズ 進化・解体・再生の歴史』悠雅彦、音楽之友社、1998年。ISBN 4276370787
  • 『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、加藤総夫、柳沢てつや、北里義之、大村幸則、瀧口秀之、西島多恵子、山下泰司、黒田京子、桜井圭介、上野俊哉、米田栄、田辺秀樹、高橋順一、川竹英克、田村和紀夫、大宅緒、高見一樹、島原裕司、柴俊一、洋泉社、1997年。ISBN 4896912500
  • 『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。ISBN 4636207505
  • 『ニューヨークJazz』小川隆夫、東京キララ社、2002年。ISBN 4380022005

関連図書編集

  • 『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、貴志俊彦、岩波書店、2013年10月。ISBN-10: 4000291157。

脚注編集

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  1. ^ a b c d 斎藤真 他(監修)『アメリカを知る事典』(平凡社、1986年)pp. 210-217
  2. ^ a b 岩浪洋三『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』(朔北社、2008年)pp.65-68、291-292
  3. ^ 田中まり 「第三帝国とジャズ」北陸学院短期大学紀要 32, 237-248, 2000-12-28
  4. ^ 相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』(新潮社、2007年)pp.116-127
  5. ^ 『フリー・ジャズ』レビュー(All Music Guide)
  6. ^ a b 『音楽CD検定公式ガイドブック上巻』(音楽出版社、2007年)p.131, 220
  7. ^ Chart Beat, Billboard, April 9, 2009
  8. ^ 少年音楽隊とは、百貨店、飲食店、遊園地などが宣伝のために設立した吹奏楽団である。軍楽隊出身者を指導者に迎えており、東京や神戸の市中音楽隊と並び、明治からの吹奏楽奏者育成(吹奏楽は軍楽隊、管弦楽は宮内省)の系譜を継承している。交響楽の奏者またはジャズの演奏家へ進んだ。井田一郎、芦田満、南里文雄も少年音楽隊の出身。 三越少年音楽隊(1909設立)の隊長で軍楽隊出身の久野は巌谷小波(1870~1933)と近かった点、巌谷を含めた文化人(三越文化人。企業のマス・プロ、マス・セールス研究に協力)と三越百貨店が流行を創設した点、近代化に伴い子供が労働力から消費の対象へ変化した点は嶺隆『帝国劇場開幕』に詳しい。
  9. ^ バンド屋とは、映画館(無声映画)の伴奏音楽を演奏する楽団に奏者を斡旋する業者を指す。やはり軍楽隊出身者により創設されたが東京、横浜、神戸でも幅広いカルテルを結んでいた。進学出来ない少年たちに演奏技術を教える代わりに徒弟奉公をさせた。 映画館の楽士には日本で最初にジャズを演奏した一つでもあるハタノ・オーケストラもあったが、西銀座『金春館』の幕間の演奏は人気を集めた。前野港造は浅草のバンド屋から、仁木他喜雄は横浜の睦崎(六崎)からハタノへ移った。木琴奏者の平岡養一を描いた『木琴デイズ』には仁木の演奏により平岡が木琴へ進む下りがある。
  10. ^ ジャズライブKOBE神戸とJAZZ|NHK神戸放送局(2015年8月24日閲覧)
  11. ^ 兵庫県/神戸県民局7月のメッセージ(神戸県民局長平野正幸)(2015年8月24日閲覧)
  12. ^ 以下の3つの基準で禁止された。1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽(情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64)。
  13. ^ みつとみ俊郎 『音楽ジャンルって何だろう』 新潮社〈新潮選書〉、1999年12月25日、p.40
  14. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.57
  15. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。
  16. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.56, 57 日本のミントンズ・プレイハウスといえるのだという。

関連項目編集

外部リンク編集