本来の表記は「厳畯」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

厳 畯(げん しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の学者・政治家。字は曼才徐州彭城国の人。子は厳凱・厳爽。従甥(いとこの子)は厳武。『三国志』呉書に伝がある。

厳畯

尚書令
出生 生年不詳
徐州彭城国
死去 没年不詳
拼音 Yán Jùn
曼才
主君 孫権
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略歴編集

戦乱を避けて江東へ移住し、同じく徐州より疎開してきた諸葛瑾歩騭と親交を結び、彼らと並ぶ名声を得た(『呉書』)。その後、張昭の推挙で孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となった。

217年魯粛が死去すると、後任として一万の兵を率いて陸口に駐屯するよう命じられた。だが、厳畯は「私は書生に過ぎず、軍事に明るくありません。非才の者を用いれば、必ずや後悔します」と涙ながらに訴えたため、孫権も辞退を聞き入れ、代わりに呂蒙を起用した。世の人々は、己の力量を弁え謙虚であると厳畯を褒め称えた。この時、孫権は試しに厳畯を馬に乗せてみたところ、すぐに落馬してしまったという(厳畯伝注引『志林』)。

229年、孫権は皇帝に即位すると厳畯を衛尉に任命し、蜀漢へ使者として派遣した。諸葛亮は厳畯を高く評価したという。

後に罪を犯した友人を弁護したため、孫権の怒りを買って免職されたが、しばらくして復職し尚書令となった。

78歳で没した(『呉書』)。没年は不明だが孫登241年没)の遺言に名前が見えるので、死去はそれ以降ということになる。

小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となり集めた人材の一人として名が挙がる。赤壁の戦いの際、降伏派の一人として諸葛亮に論戦を挑むが敗れた。

人物編集

若い頃より学問に励み、『詩経』・『書経』・三礼(『儀礼』・『周礼』・『礼記』)に通じ、『説文解字』を好んだ。

実直で純朴な人柄であり、他者に対しては真心をもって教え導き、至らぬ点を補い助けるよう心掛けていた。

財を蓄えることをせず、すべて親戚や知人に分け与えたため、家は常に貧しかった。

『孝教伝』・『潮水論』を著し、裴玄や張承管仲子路について論じた内容は、広く世間に伝えられた。

陳寿は厳畯を「程秉闞沢と並んで一代の学者であった。己の栄達を犠牲にして友人を救った」と評している。