名村 忠治(なむら ちゅうじ、1865年9月16日(慶應元年7月27日[1][2][注釈 1])- 1923年大正12年)9月11日[1][3])は、明治から大正期の、農業指導者、地主、政治家衆議院議員福井県坂井郡三国町長。旧姓・藤田。

経歴

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越前国今立郡横越村[1][4]福井県[3]今立郡新横江村[5][6]横越[1][6]鯖江町を経て現鯖江市[4]横越町)で、藤田惣左衛門の六男として生れる[1][2]。1881年(明治14年)2月、坂井郡坂井港松ケ下町(三国町[4]を経て現坂井市)の名村ゆうの養子となる[1][2][4][注釈 2]。普通学、漢学を修めた[5]。1891年(明治24年)6月に家督を相続した[2]

1888年(明治21年)荒地を開墾して桑園とし私立接木伝習所を設置[5]。三国輸出米商組合長、坂井郡農会副会長、福井県農工銀行監査役、福井県実業会員などを務めた[3][5][6]

政界では1893年(明治26年)4月、三国町会議員に選出され[3][4][5]3期在任[7]。1897年(明治30年)6月、坂井郡会議員に当選し[3][4][5]2期在任[7]。1897年と1912年(明治45年)の二度、三国町長に就任した[1][4][5]。1897年8月、福井県会議員に選出され、1907年(明治40年)9月まで4期10年在任し[1][5][7]、同参事会員も務めた[3][5][7]。三国の振興のため、新保橋架橋と北陸鉄道三国支線の敷設に尽力した[1][4]。1904年(明治37年)11月、県会の政友会支部派と非政友派の対立の中で、名村の県会議長指名が無効となった[1][4]

1909年(明治42年)7月1日に荻野芳蔵が衆議院議員を辞職[8]したことに伴い、第10回衆議院議員総選挙福井県郡部補欠選挙立憲政友会所属で出馬して同年7月28日に初当選[1][3][5][9]。1915年(大正4年)3月、第12回総選挙で再選され[1][10]、衆議院議員に通算2期在任した[3][6]。この間、杉田定一らと協力して三国線の敷設、金津駅(現芦原温泉駅)に急行列車停車などの実現に尽力した[1][4][7]

晩年には三国中学校(現福井県立三国高等学校)の設置に尽力した[1]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、19頁では7月25日。
  2. ^ 名村家は三国の旧家、大地主。『福井県議会史 議員名鑑』355頁。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『福井県議会史 議員名鑑』355-256頁。
  2. ^ a b c d e 『人事興信録 第3版』な3頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』435頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『福井県大百科事典』678頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j 『現代日本の政治家』政友会101-102頁。
  6. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』310頁。
  7. ^ a b c d e 『内外福井県人士録 第1巻』95-96頁。
  8. ^ 『官報』第7806号、明治42年7月3日。
  9. ^ 『官報』第7838号、明治42年8月10日。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』64頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『内外福井県人士録 第1巻』福井黎明雑誌社、1922年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 福井県議会史編さん委員会編『福井県議会史 議員名鑑』福井県議会、1975年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。